状況が裂いた部屋

旅行と読書と生活

一番強度の高いメディア

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先日、映画「ブレードランナー2049」を観た。本当に美しい映画だった。大作のSF映画に期待されてそうな派手さはないけれど、圧倒的な映像美と「自分は何者なのか」という哲学的な問いを追求するストーリー、終始漂う物悲しい雰囲気、ラストの主人公の選択、どれも素晴らしかった。

この映画の舞台となっている2049年では、過去の「大停電」と呼ばれる出来事により電子化されたあらゆる情報が失われており、残っているそれ以前の記録はごく僅か、という設定である。この「大停電」については渡辺信一郎監督の短編アニメ「ブレードランナー ブラックアウト2022」を観ると事件の概要が分かる。簡単に説明すると一部のレプリカントが「核ミサイルの電磁パルスであらゆる電子機器を破壊」し、「同時に磁気システムを使用するセンターのバックアップは6発の爆発により消去される」ことによりデータを吹っ飛ばしたらしい。要するにテロで物理的に全部破壊した。

「自分は何者なのか」。人間なのか、レプリカントなのか。誰から生まれ、この記憶は誰のものなのか。主人公には断片的な記憶しかない。ブレードランナーとしての任務として、過去の記録を調査しにウォレス社を訪れるが、大停電を経て生き残った記録はほとんどない(本などの紙媒体は残っている)。食料の供給からレプリカントという労働力まで、全てをウォレス社が支配するディストピア。記録が失われているために参照できる記録がない状況で、身寄りも無く、自分の過去を尋ねる相手もいない主人公は、わずかな手がかりを辿って記憶の真相に迫っていく。

「2022」の中で、レプリカントの有志はデータを破壊することで製造番号などの記録を抹消し、人間とレプリカントの境界を壊した(外見では2者の違いはわからない)。実際に「2049」でハリソン・フォード演じるデッカードは人間かレプリカントか最後まで分からない(リドリー・スコットがインタビューで「レプリカントだ」と普通に話してたけど…) 。大停電はある程度成功したということだ。高度に発達し、あらゆるメディアが電子化された社会でそのデータが失われた、そんな設定で作られるディストピア。SFだけど、それなりに起こり得そうでリアリティを感じてしまう。

 

最近やたら引用していて恐縮だけれど、恩田陸が少し前にこんな文章を書いていた。

数年前、紙問屋の社長さんと話していた時に「記録媒体として何がいちばん優れているか」という話になった。社長さんは「和紙に墨で書いたもの」と即答した。なぜならば、歴史が既にそのことを証明しているから。確かに、初めてワープロフロッピーディスクが登場した時は、これがこれからのスタンダードになると思ったのに、その寿命は短く、たかだかここ二十年くらいのあいだに、めまぐるしく記録媒体が現われては消えていった。しかも、それらに書き込んだデータは予想以上に劣化のスピードが速く、いつ消えても不思議ではないのだそうだ。おまけに読み出す機械と電力がなければ、中に何の情報が入っているのかすら分からない。だとすれば、世界から文明が消滅した未来、やはり常野一族の末裔がかつての人類の取ってきた方法通り、こんなデジタル技術の時代などなかったかのように、人々の記憶を伝えつづけているのかもね、と思う今日このごろなのであった。

 

舞台「光の帝国」HP イントロダクション

http://www.caramelbox.com/stage/hikari-no-teikoku/

 

 常野物語シリーズは全て読んだわけではないのだけれど、簡単に説明すると常野一族は特殊な能力を持つ人々で、それぞれひっそりと普通の人間に溶け込んで生活している。上記の演劇の脚本になっているのは、一度読んだだけで完璧に文章を記憶できる、文章を「しまう」という能力者のエピソード。

文章の中の最も優れた記録媒体の話題で、和紙に墨で書いたもの、との答えが紹介されている。そして、歴史が既にそのことを証明しているとも。確かに、フロッピーやVHS、MDなど、まだ二十数年間しか生きていない自分もいくつかの媒体が消えていくのを目にしている。もし、今後ブレードランナーの大停電ような厄災が起こったとき、生き残る記録といえば紙に書かれた文章や、石に刻まれた文字や記号のようなものかもしれない。もしかしたら人類の滅亡の方が早いかもしれないけれど。

 

 

 

 

大学3年の初夏

久しぶりにKensei Ogata「Her Paperback」を聴いていたら、大学3年のある時期の思い出がフラッシュバックしてきた。自分は感傷マゾの気があり、常に将来に希望が持てない後ろ向きな人間であるため、定期的に大学時代の楽しかった思い出に浸っては鬱になっている。

大学3年の初夏。ひどく忙しい時期だった。学生の忙しさなんてたかが知れてるんだけど、この学期だけは何故か全ての方面でやることが多かった。大学の講義は確か週22コマとか入っていた。おそらく教職課程の必修のせい。ゼミも始まった。当時使っていたPCのドライブを見ると、1万字超えのレポートをいくつも書いていたのを確認できる。5月からは大学の公務員講座が始まった。自分はこの時期までやりたい職業が見つからなかったので、消去法的にじゃあ公務員にでもなるか、という考え方だったため、モチベーションは低かった。それでも講義は割と出席していたたので、週に4日は夜6時から9時過ぎまで講義を受けていた。6月には教育実習があった。もう教員になる気はなかったのだけれど、教職課程を無理して途中まで受けてきた以上、半ば意地みたいに教員免許を取ってやろうと考えていた。実習自体はとても楽しく(母校実習で通っていた高校に行けたところが大きい)行ってよかったなと思う。しかし様々な準備や指導案作成に膨大な時間を取られ、公務員試験の勉強は滞ってしまった。

こうした勉強方面での忙しさが一番だったが、バイトもそれなりに入っていた。それまで学生生活の中心を占めていたサークルに顔を出さなくなり、友達と会う機会も減っていった。この後、秋になる頃にはゼミ室に入り浸るようになり、怠惰過ぎる同期と先輩と麻雀に励むなどして新しい居場所を確保するんだけれど、この3年の4〜8月頃はひたすらに孤独だった。

 

この頃、勉強は大学の図書館でやっていたんだけれど、土日はタリーズに通っていた。ツタヤに併設されている、大して広くもないタリーズ。割と居心地が良いと気付いてからは、午前中は大学の図書館、一旦帰宅して昼飯を食べてからタリーズに移動して夜まで粘る、というルーティーンが出来た。

徒歩で移動する間、ずっと音楽を聴いているんだけど、この時期聴いていたのが「Her Paperback」だった。もともとtalkを今はもうない音楽サイト「路地裏音楽戦争」で知り、「waltz for breeze」は良く聴いていた。

talk - Waltz for Feebee [OFFICIAL MUSIC VIDEO] - YouTube

4月下旬、大学への坂道を登りながらよくこのアルバムを聴いていた。ちょうど桜が満開で、映画音楽みたいなこのアルバムがよく景色に合ったのを覚えている。

5月〜6月、先述の理由で忙しくしつつ相変わらず大学周辺をうろうろしながら、talkからの流れでKensei Ogataのソロを聴き始めた。音数が多くなく、素朴な歌物の曲が自分にスッと入ってきて、この時期の孤独感に寄り添ってくれたように感じた。特に気に入ったのが「Happy Sunny March」と「ゆるやかな自殺」だ。サウンドクラウドではCDに収録されている曲の他にもいくつか音源が公開されており、ダウンロードも可能だった(多分現在は不可)。スーパーカーの「Lucky」をアコギで弾き語った音源が好きすぎて、ひとりでスタジオに入りギターを弾くなどした(今見返したらこの時撮った「Lucky」がボイスメモに残っていて死ぬかと思った)。自分とそう年の変わらない、熊本のひとりのミュージシャンの音楽に救われて、厳しい時期を乗り越えられたこともあったな、という思い出。

総括と抱負

2018年。2017よりは字面が良い気がする。

平成30年。なかなか区切りが良い。なんとなくいい年になる気がしてきた。

 

先日、「2017年を漢字一文字で表すとどんな感じ?」と人に聞かれ、「ダジャレかな?」と返したら真っ赤になって肩を殴ってきた。痛い。

私の回答は「慣」である。社会人も2年目になって、仕事はある程度上手くこなせようになり、生活もなんとか回るようになった。「慣れ」からくる余裕のおかげかなと思う。残業続きで生活が崩壊していた去年とは大違いだ。自分のペースというか、いいリズムを確立できた年になった。

一方、慣れからくる妥協、というか、いい加減な部分が出てきたところもあったように思える。例えば仕事において、1年目に初めて取り組む業務は要領や引継書を読み、目的や必要性、方法や所要時間までよく考えながらやっていた。しかし2年目になると、「面倒な事が嫌い」「楽して生きたい」「できるだけ働きたくない」という本来の自分の性格が出て、結果「適当に、去年と同じようにやる」という方法に落ち着く。もちろん最低限の仕事はこなしている訳で、悪くないとは思うんだけれど、少し理想を高く、意識高そうなことを言えば、その仕事の効率化、改善化をするべきなんだろう。「悪い意味での慣れ」からくる怠惰。

あとは、「習慣」。読書の習慣が出来たのは大きい。あれだけ時間があった学生時代、大学2〜3年の一時期を除けばたいして読んでなかったのに、今では月に3冊は必ず読む。仕事帰りに駅直結の本屋を覗くことが多く、気になっていた本が文庫化されたのを見つけては買って読む。あとはブックオフで一気に目ぼしいのを5,6冊買って、週一冊ペースで通勤中読む。なかなかいい習慣だと思う。

それと、行きつけの喫茶店ができてしまった。家から徒歩5分の老夫婦がやってるお店。毎週土曜日の朝はスタジオ練がなければ大抵行く。良い居場所を獲得した。学生の頃から地味にいろいろな喫茶店を巡ってたんだけれど、実家の近所にこんなよいところがあったとは。ほとんど毎回ブレンドしか注文しないせいか、最近では席に座るだけでマスターが「はいホットねー」と持ってくる。常連さんと認識してくれたらしくちょっと嬉しい。

 

2017年の振り返りはこの辺にして、今年の抱負を書いておきたい。やりたいことが沢山ある。とりあえずテーマを1つ掲げるとすれば、「自分の好きなものに正直になる」ということ。これは「好きなものを我慢しない」とも言い換えられる。ちょっと気になってた、ちょっと欲しいと思ってた、でもなあ…と何かと理由をつけて諦めていたあらゆる物事、その全てをやってやる、そういう意気込みで生きていきたい。欲しいものは全部買うし、行きたいところには全部行ってやろう。仕事を中心に生活が回るのは仕方ないとしても、趣味をもっと充実させないと生きる意味がなくなってしまう。「僕は死ぬように生きていたくはない」、このマインドである。

具体的には海外旅行2回、毎日映画が観れる環境作り、フジロックへ初めての泊りがけ参戦、一昨年立ち上げた登山部を発展させてアウトドア部を創設すること、ロードバイクを修理してまた始めて、車(新型ジムニー)を買うこと、などである。お金ないんだけど、それすらも言い訳にはしない。借金をしてでも遊ぶつもりである。

 

あとは、個人的な創作活動を始めたいと思う。これについては別個に書きたい。何か形になるものを残さないといけない。去年はバンドで2枚のCDの発売に関わることができた。でもまだまだ足りない。いまも脅迫観念に追われるかのように作っている。世に出そう必ず。

映画「リンダリンダリンダ」

 

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2005年。山下敦弘監督。

 

何度も見返している大好きな映画を、改めて文章にするのはなんだか気恥ずかしいし、それなりに思い入れがあるため私情を挟まずに客観的な評論をするのは難しい。言い訳をして感想のみ。

 

簡単にストーリーを説明すると、学園祭を目前に控えた高校の軽音楽部で、とある女子のバンドが空中分解してしまい、急遽残ったメンバーが韓国人留学生をボーカルに迎えてブルーハーツコピーバンドを結成し、すったもんだしながら学園祭で演奏する、というもの。数行で済んでしまった。

特にドラマチックな出来事があるわけでもなく、ブルーハーツを選んだ理由も部室のカセットを漁っていたらたまたま聞くことになったから、という単純なもの。ボーカルが韓国人になったのにも大した理由はない。特に誰が主人公という訳でもなく、4人それぞれのエピソードが少しずつは描かれるものの(男子から呼び出されて告白される、自分のサークルの顧問との個人的な会話シーン、など)、特定の誰かを主役に据えて物語が進行することもない。とても淡々とストーリーは進んでいく。時々挿入される映画部?の撮影シーンもそれを強調させる。

その分、なんてことはないシーンのひとつひとつが愛おしい。とりあえずバンドのスコアをプリンタでコピーしたり、バンドでの初合わせの演奏がグダグタで、曲が終わってから気まずい沈黙のあと顔を見合わせて苦笑いする感じとか。ナレーションもなく、自分の過去や背景を語り出すような人物もいない。ちょっとした出来事や仕草からそれぞれのキャラが自然と浮き上がってくる。

 

一番好きなのは、4人が夜の学校の屋上に忍び込み、ジュースを飲みながらただ駄弁るシーン。ベースボールベアーの関根詩織演じるのぞみが、「こういう時のことって忘れないよね」と熱く語り出し、他の3人が堪えきれず笑ってしまい、恥ずかしくなったのぞみが怒ってちょっと泣くところ。いかにもありそうな会話シーンを、いかにもなシチュエーションでやってくれるのが良い。舌足らずなのぞみの喋り方が、演技下手なぶんやたらリアルである。ちなみにこの屋上のシーンで、のぞみが怒ったときに手元ある缶ジュースが倒れて溢れ、少し慌ててるんだけれど、おそらく台本にない偶然のカットの気がする。

リアルさで言えば、部室のポスターにツェッペリンやTHE MUSIC、ペンパルズやRSRのポスターが貼ってあるあたり雰囲気があって良い。よくありそうな軽音部の部室だ。あとクラスの出し物の準備を抜けられないあの感じ。

本番当日、徹夜続きのスタジオで居眠りした全員が出番に遅れるのだが、そこでいきなり香椎由宇演じるケイの夢が展開される、というパートある。ヘンテコな夢なのですぐに虚構だとわかるんだけれど、その無理やり挿入された感のある場面の意味は正直よくわからない。誕生日を祝われ、武道館のステージに立ち(実際は全然違うホール)、ピエール瀧が本人役で登場する。

あと地味に松山ケンイチが出てる。ソンに告白され、振られる男子生徒役。あと軽音部の部長役で小出恵介が出ているため、今後地上波のTVで見ることはなさそう...

 

そしてこの映画、なぜか音楽をジェームス・イハが担当している。作中何度も流れるテーマ曲がとてもいい。スマパン時代のイハの作曲はあまり多くないけれど、名曲「mayonaise」は青春時代を連想させるし、青春モノとの親和性がある(気がする)。


大切な時間 James Iha リンダリンダリンダ

印象的な場面に、楽器を背負ったメンバー4人が等間隔で河原を歩くシーンがある。(DVDだとメニュー画面の背景になっている)ここで流れるのが「夕暮れの帰り道」という曲なんだけど、これもまた良い。サントラはあいにく持ってないので、いつか欲しい。

 

YouTubeに映画全編が普通に上がっているためにいつでも観れてしまうのは、果たして大丈夫なのだろうか。今後も思い出すたびに観ることになりそう。

 

 

 

 

ここまで感じたままに感想を書いてみたんだけれど、なぜ今更「リンダリンダリンダ」について文章を書いたかといえば、最近読んだ本で触れられていて思い出したからだ。宇野常寛の「ゼロ年代の想像力」。なかなか面白かった。本格的な批評本を読むたびにいつも思い知らされるのが、自分がいかに「読んでいないか」といことだ。つまりは知識の浅さを突きつけられる。あらゆる作品を横断して論じるには、そのあらゆる作品の細部を語れないといけない。ハルヒやらクドカンやら恋空からAKBまで、あらゆるサブカルチャーを徹底的に整然と批評できるのは、もちろん全てを見て知っているからだ。正しいかはさておき、言及できるだけで凄い。

本書の第14章、「『青春』はどこに存在するか」のサブタイトルが「『ブルーハーツ』から『パーランマウムへ』」であり、矢口史靖監督「ウォーターボーイズ」に象徴される「学園青春モノ」との対比で「リンダリンダリンダ」を論じている。

たとえば、こんなシーンがある。パーランマウムのメンバーが所属する軽音楽部の顧問がを務める教師が、生徒に励ましの言葉をかけようとする。教師は、自分が生徒だったころどんな思いを抱いていたか、そして今、教師として彼女たちの姿を見てどう思うかーーそんな思いを口にしようとするが、モゴモゴとしているうちに「先生、もう行っていいですか?」と生徒に話を打ち切られてしまう。そう、余計な(矢口的な)説教(物語)なんていらない、青春はただそこにあるだけで美しいのだーーそんなスタッフの態度が伝わってくる名シーンだ。

 

宇野常寛ゼロ年代の想像力」p353

 

なかなか愉快だ。このシーン、単純にコントみたいで笑えて好きなんだけれど、深読みすればこんな見方もできるのか。目から鱗だ。

確かにこの映画では、登場人物の背景は語られず、余計な回想シーンも、過剰な心理描写もない。誰も死なないし、そもそも事件なんて起こらない。ただ、ありふれた青春の数日を切り取っただけなのにこんなに美しいのは、ありふれているだけに観客が入りやすい、自分にもあったかもしれない青春を投影できるからなのだろう。

 

 

追記:最近ネットで拾った写真なんだけど、尊い

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最高に粋な遊び

http://jaws-complete.tumblr.com/

禁断の多数決のメンバーによる、スピルバーグの某映画への愛とユーモアに溢れた一連の映像作品。

単純にB級短編映画としてどれも面白いんだけれど、このプロジェクトの実の目的は「バック・トゥ・ザ・フューチャーPART2」(監督:ロバート・ゼメキス)の劇中で“2015年”に上映されている設定の『ジョーズ19』と、実際に存在しているスピルバーグによる「ジョーズ」シリーズ1〜4の間の空白、つまりシリーズ5〜18を勝手に制作する、というものだ。着眼点の面白さと、本当に14作を作り切った執念、そして常軌を逸した本家への愛にすっかり感動してしまった。これは本人が言っているとおり「最高に粋な遊び」だと思う。その精神は主導した禁断の多数決のメンバー、シノザキサトシ(現在は脱退)のこの文章に示されている。以下引用。

ーー『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2』を改めて観ると、この未来は、いまこの現実の現在とは当然のごとく、ズレが生じている。中でもいくつか興味深いズレがあり、目を惹くもののひとつとして『ジョーズ』シリーズの19作目が上映されていることがあるだろう。

(中略)現在、本家の『ジョーズ』シリーズは4作目にあたる『ジョーズ’87 復讐篇』で止まってしまっている。要するに『ジョーズ』シリーズ5〜18が空白のまま『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2』は現在に来てしまったわけである。だからといって『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2』の未来をやはり空想のものだったと我々は悟ってはいけない。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』3部作を観て、胸をときめかせたものなら、誰でもこの未来は実在する未来として、いつまでも観ていたいのだ。マーティ達がこの世界のどこかで活躍していると信じているものにとって、この『ジョーズ19』も、もちろん実在している。タバコでも買いに出掛けたときにポッと思いついたような気もしなくもないこの無邪気な設定。それでも我々は、この空白の『ジョーズ』シリーズを5から18まで不眠不休で制作することになることに何一つ苦は感じなかった。それどころか、マーティがやって来る現在と同じ世界に生きていると信じて、映画と現実を繋げるのは、最高に粋な遊びと感じたのだ。では、これをつくることによっていったい現在に何か起こるのだろうか??何も起こらないかもしれない。だが、もしかしたら何か起こるかもしれない。そう考えると、何か起こるほうに賭けてみようではないか。どこかでばったりマーティに鉢合わせたとき、我々は彼にまず伝えることがある。それだけで充分じゃないだろうか。そういう気持ちの心構えこそがロマンなのであり情熱である。それを教えてくれたのは、当の『バック・トゥ・ザ・フューチャー』なのだから、もうなにも言うことはないだろう。

禁断の多数決    シノザキ サトシ

 

ZINE「Bubble Whistle」より引用

 http://zine.bubble-whistle.org/reviews/jaws-19-text/

最高だ。この気概で作られた作品だと思うとこの人たちの「ジョーズ」シリーズもなんだかさらに美しいものに見えてくる。ロマンと情熱、好きな作品への愛… 大人になるといつしか好きなものへの情熱は薄れていき「昔は好きだったなー」くらいの心持ちになるものだけれど、純粋なキッズだった頃の気持ちを持ち続け、こうしてついには愛に塗れた独自の作品を作り上げた行動力に感服した。自分もこういうマインドを忘れずに生きたい。つくづくそう思った。

「ただ座っている老人」についての考察

   街を歩いていると時々見かける、何をするでもなくただじっと座っている人。大抵が老人で(どちらかと言えばおじいさんの場合が多い)、普通の民家の前などで、椅子だったり、玄関の石段だったりといった場所に腰をかけて、ぼうっとしている。目の前の道を行き交う人を眺めている訳でもなく、ましてや本を読んだり煙草を吸ったりもせず、ひたすらに何もしていない。いや、生きている以上何かをしている筈であって、究極的に言えばそれこそ「生きている」とか「呼吸をしている」としか言いようが無いんだけれど、客観的に見たら彼らが何をしているかを説明しようとしたときに結局「ただ座っている」としか形容しようがない、そんな人たちがいる。

   彼らは何をしているのだろうか、いや、何もしていないことをしているのだろうか…。彼らを見かける度に考える長年の謎だったのだけれど、最近これなのかな、という自分の知らない概念を知った。

 

 

   このツイートを見た瞬間浮かんだのが、何もせず椅子に座り、ぼんやりと佇んでいる老人の姿だった。そうか、あの人たちは“ケイフ”をしていたのか…。まずこの概念が目から鱗だった。毎日を忙しく、何かに取り組んでいないと不安になるような世知辛い典型的な日本人とはかけ離れた、仙人のような生き方の極致ではないか。「何もしない」、という幸せ。欲にまみれた自分には相容れない価値観だけれど、少しわかる気がする。

   今後は街で座って何もしていない人がいたら、「あのじいちゃん呆けてるのかな…」ではなく、「ああ、ケイフを実行されてる方だ」と多少の尊敬の念を込めて捉えておこうと思う。

 

読書の時間

  恩田陸の著作に「小説以外」というエッセイ集がある。その中に収録されている「読書の時間」という一編は読書というメディアの真理を短い文章でこれ以上なく端的に言い表しており、初めて読んだとき心の底から感服してしまった。短いので思い切って全文を引用する。

読書とは、突き詰めていくと、孤独の喜びだと思う。 人は誰しも孤独だし、人は独りでは生きていけない。 矛盾してるけど、どちらも本当である。書物というのは、 この矛盾がそのまま形になったメディアだと思う。 読書という行為は孤独を強いるけど、独りではなしえない。 本を開いた瞬間から、そこには送り手と受け手がいて、 最後のページまで双方の共同作業が続いていくからである。 本は与えられても、読書は与えられない。 読書は限りなく能動的で、創造的な作業だからだ。 自分で本を選び、ページを開き、 文字を追って頭の中で世界を構築し、 その世界に対する評価を自分で決めなければならない それは、群れることに慣れた頭には少々つらい。 しかし、読書がすばらしいのはそこから先だ。 独りで本と向き合い、自分が何者か考え始めた時から、 読者は世界と繋がることができる。 孤独であるということは、誰とでも出会えるということなのだ。
 
「小説以外」 新潮社 p.179
 
 「小説以外」は自分がこれまで読んだエッセイ集の中で不動の一位である。まずタイトルがいい。エッセイを出すならこれ、と決めて温めていたらしい。一編ごとのタイトルも秀逸だ。「予感と残滓の世代」「すべてがSFになったあとは…」「四人姉妹は小説そのものである」など。
   「六番目の小夜子」と「夜のピクニック」がそれぞれテレビドラマ化、映画化されているので世間では青春モノの人、と認知されてる節があるが、実際はミステリやSFといったジャンルも幅広く書いている。しかしどのジャンルを書いても共通しているのが、主人公(自分)の世界への憧れや期待、子供に誰もが懐く漠然とした憧憬だと思う。何編かのエッセイで自身の読書遍歴を語っているけれど、こういった読書がライフワークになっている人間がああいった美しい文章を書けるんだな…と凄い説得力を感じる。大学の講義中にキングの「ファイアスターター」を読み始めたところ面白すぎてやめられず、喫茶店に移動して夜までかかり一気に読んだという話(『ブラザーサン・シスタームーン』の琴音のエピソードのモチーフと思われる)、OL時代に司馬遼太郎の『坂の上の雲』に夢中になって一日で全編読み切る話、仕事に忙殺されていた社会人時代のある日、酒見賢一後宮小説』を読んで僥倖を得て、一気にデビュー作を書き上げた話など、本との幸せなエピソードが多く収められていてこちらも幸せになる。ちなみに酒見健一は第1回ファンタジーノベル大賞受賞者で、恩田陸のデビュー作『六番目の小夜子』は第3回の最終候補作品である。その他映画や漫画、日本文化への評論、転校が多かった子供時代の思い出、世の中を俯瞰した随筆など、どれも視点が素晴らしい。あとは酒への執着も。ビール党らしい。
   2005年に「夜のピクニック」で本屋大賞を受賞したときの挨拶文が最後に収められている。あれから10年が経っているので、そろそろ雑誌に掲載されてきたエッセイも溜まっていると思われる。文芸誌は立ち読みがしづらい上にいまひとつ買う気にもなれないので、また素敵なタイトルで単行本として世に出してほしいと願っている。