状況が裂いた部屋

旅行と読書と生活

映画『64(ロクヨン)』

「君は悪くない」。

15年間部屋に閉じ篭った男は、そう一言だけ書かれたメモを読んだ途端、声にならない叫びを上げて涙を流す。自分を責め続けたひとりの人間が救われて、止まっていた時間が動き出す瞬間だ。

横山秀夫の警察小説「64」の劇場版。前編と後編に分かれる総計240分の大作だが、クライマックスは間違いなく前編の終盤、この引き篭もりになった元警部が主人公から救いを与えられるシーンだ。


15年。あまりに長い時間だ。

昭和天皇崩御により一週間しかなかった昭和64年、その間に起きた小学生の身代金誘拐事件。身代金は奪われ、犯人は逃走し、少女は無残に殺されるという最悪の結果に終わった。

それから14年が経過し、時効が迫った平成14年の県警が本作の舞台である。事件当時「ロクヨン」を担当していた三上という刑事が主人公。三上は現在刑事部から異動され、報道官として記者クラブとの交渉に明け暮れている。

警視庁長官の事件視察のため、被害者の家を久々に訪れた三上は、真っ白な髪に生気のない目をした、廃人のような被害者の父雨宮芳男に会う。被害者の母は既に死んでいた。

 

この映画にはいくつもの象徴的なシーンがある。

だだっ広い空き地に立つ公衆電話。この作品では電話が重要な意味を持つ。この公衆電話と、雨宮の家に無造作に置かれている電話帳、そして雨宮の指紋が削げ落ちた指先が結びついた時、三上はこの父親が背負ってきた15年間という地獄のような時間を思い知る。58万件という途方もない数の家から声だけで犯人を探し出した雨宮の執念。犯人に復讐する、ただそれだけに執着して生きた15年という時間。目崎の声を聴いた途端、目を見開いて驚き、そのまま電話ボックスで崩れ落ちて笑い泣いた姿。ある意味、この瞬間雨宮は救われたと言える。胸が張り裂けるようなシーンだ。

三上の苗字が「ま行」で目崎より少しだけ早い、というのも伏線である。

事件当時、娘を誘拐した犯人の身代金の受け渡しに奔走する雨宮が、スーツケース乗せたセダンを必死に運転する姿も印象的だ。一度雨宮が三上の前を横切る瞬間、スローモーションになる演出があるが、この時の鬼の形相で前を睨む父親の顔は、「後編」で吉岡秀隆演じる幸田が車を運転する時の表情に重なる。「幸田メモ」を闇に葬られ、15年間雨宮と共に苦しみ続けた幸田の全てを投げ打った行動は、善悪を超えた凄みがある。


原作小説に忠実な(ラストは違うが)ストーリーの良さはもちろん、刑事たちの人間ドラマらしい生々しい台詞も良い。三上が廊下ですれ違った同期で出世頭の二渡に対して投げつける「次は俺をどこに飛ばすか、人事の頭でも捻ってろ」という台詞。さらに、記者クラブと広報室の飲み会で秋川が三上に対して「美雲はまだ誰にも抱かれてないですよ」と囁くシーン。刑事モノはこうあってほしい、という生々しさが詰まっている。

 

しかし改めてキャストを見ると、この人も出ていたのか!と驚くほど豪華だ。三浦友和奥田瑛二は渋くてやはり刑事は似合うな…と思う。記者に吊るし上げられる第二刑事課長が柄本佑なのも似合いすぎてる(安藤サクラと結婚したので奥田瑛二の義理の息子である)。広報室係長は綾野剛だし、事件から引き篭もっていた若い刑事役は窪田正孝だった。そして顔を髪で隠しているので全然気づかなかったが、三上の失踪中の娘は芳根京子が演じていた。


敢えて言うことがあるとすれば、ポスターがダサい所くらいか。これだけ豪華なキャストなら顔を出したいんだろうけれど、先述した象徴的なシーンとタイトルのみ、みたいな思い切った絵にして欲しかった。とにかく内容は、特に前編は素晴らしいので全ての人に観てほしい。

64-ロクヨン-前編
 

 

 

追記:「豪華版」のDVDはカバーがまさに自分が切り取ってほしい風景とロゴのみのデザインで、これだ、と声を上げてしまった。何故最初からこれにしなかった… 街と街灯、廃車が投棄されている空き地と鉄塔。作品の雰囲気が表れている良いデザインだと思う。

64-ロクヨン-前編/後編 豪華版Blu-rayセット

64-ロクヨン-前編/後編 豪華版Blu-rayセット

 

 

宮本輝『青が散る』

 

 どうしてこんなにも哀しく、寂しいのだろう。テニスに打ち込む主人公を描いた青春小説だというのに、読後まず浮かぶのは「寂しい」という感想だ。これは初めて読んだ学生の頃から変わらない。むしろ読み返すほどにこの寂しさ、無常感は強まるばかりだ。

 簡単なストーリーについて。関西に新設されたとある大学へ気の進まぬまま進学した主人公・椎名燎平は、入学手続きの日に大手洋菓子店の令嬢、夏子に一目惚れする。巨漢に眼鏡という出で立ちの男・金子と出会いテニス部に入部した燎平は、夏子とは微妙な関係のまま、ひたすらテニスに打ち込む毎日を送る。テニス部の同期やライバルのほか、薄暗い喫茶店にたむろする学ランの応援団、野球を諦めたフォーク歌手など、学生生活の中で出会いながらかけがえのない日々を淡々と過ごしていく。

 主人公はテニスに熱中しており、猛烈な練習の末にインカレ出場まで果たすというのに、この小説の主題はスポーツのみにあるとは思えない。明らかに燎平の生活はテニスを中心に回っており、試合のシーンや練習風景はしょっちゅう描かれている割に、印象に残るのはどうでもいいような別の場面ばかりだ。それは練習終わりの溜まり場である喫茶店で語られる、とりとめもない会話や、ふとしたときにモノローグのように語られる、燎平の心情だったりする。登場人物は皆ことごとく影を持っており、燎平に向けて、あるいは自分へ言い聞かせるようにそれぞれ勝手に言葉をこぼすが、それらは燎平の心に留まり続け、ふとした瞬間に頭を過ぎり、不思議と心に残る。

 

青春小説とは、「場」を語る話だとある人が言っていた。

この小説で言えば、大学という場、更に言えば灼熱のテニスコートだったり、善良亭という食堂だったり、あるいは喫茶店「白樺」の薄暗い地下の空間なのだろう。

また、長い人生の中でほんの一時期訪れる、好きなことに純粋に熱中できる大学生活の4年間という時代、この特異な時間自体を「場」と捉えることもできる。

そしてこの時間は、当たり前だが有限で、限られたものだ。終わりがないように思える楽しい時間もいつか終わりを迎え、誰しもが卒業と同時に退場しなければならない。

全ての青春小説に言えることだが、あらかじめ終わりが決まっている、というこの設定がもう寂しい。

 

小説を通じて一番印象的なのは、夏子が永遠に失った「何か」。言葉としてそれを捉えるのは難しいが、この小説の本質はここに尽きると思う。

先の見えない恋愛の末に、心身ともに堕ちてしまった夏子と、それでもどうしようもなく夏子を好きな燎平のやるせない心情。夏子は最後まで美しいが、喪ったその「何か」は、二度と戻らない。

自分の勝手な妄想だが、なんとなく夏子は「ノルウェイの森」のハツミさんのようにいつか自殺するんじゃないか、と心配になる。

 

この小説の根幹にある「寂しさ」は、青春小説が往往にしてそうであるように、この物語が何かを喪う小説だからだと感じる。それは「若さ」や「潔癖さ」という言葉、あるいは夏子の眼の奥にあった緑色の色彩として描かれているが、物語のラストシーンである以下の文章に集約されている。

燎平は夏子の目を見つめ、夏子は若さとか活力とかいったものではないもっと別な大切な何かを喪ったのかもしれないと思った。いや、夏子だけではない。金子も貝谷も祐子も、氏家陽介や端山たちも、自分のまわりにいた者はすべて、何物かを喪った。そんな感懐に包まれた。そして燎平は、自分は、あるいは何も喪わなかったのではないかと考えた。何も喪わなかったということが、そのとき燎平を哀しくさせていた。何も喪わなかったということは、じつは数多くのかけがえのないものを喪ったのと同じではないだろうか。そんな思いにひたっていた。

そして燎平は遠ざかっていく夏子の姿を見ながら、ある登場人物の「人間は、自分の命が一番大切だ」という言葉を思い出し、この小説は終わる。

 

人生の中で、大学生活とは特別な時間だとつくづく思う。

モラトリアムの終わりと、社会に押し出される瀬戸際にぽっかりと現れる空白。気楽な学生生活というぬるま湯の生活と、長い長い仕事勤めの社会人としての先の人生。気の合う友達とひたすらだらだらと怠惰に過ごしてもいいし、趣味に熱中してもい。気ままに旅に出てもいい。こんなに制約のない自由な時間は、この先の人生できっと二度とない。

でも、そんな時間にもいつか終わりがある。

誰も口には出さないが、なんとなくこの時代に終わりがあり、否応なしに世の中に出て行かなければならないことにみんな気付いている。この自由もほんの儚いもので、社会に出ればこの場での出来事も思い出になり、やがて忘れ去ってしまうのだろう。

優れた青春小説は、そんな寂しさを常に感じさせる。だからこそモラトリアムという時間は尊くて、愛おしい。そんな大学時代の特別な寂しさが描かれたこの小説を、僕はこの先もずっと好きなんだろうなと思う。

 

 

きっかけについて

久々に旅行に出たり、友達と楽しく飲んだりしたおかげか、ここ数週間の過労で参ってしまっていた心が回復し、少しだけ前向きになれた。夏が近づき暖かくなったせいかもしれない。同時に創作へのモチベーションが上がってきたので、この機を逃さぬよう文章を書く。

 

恩田陸はOL時代、酒見賢一の『後宮小説』を読み、著者が自分と一歳しか違わないことにショックを受け『六番目の小夜子』を書いてデビューした。小説『ブラザーサン・シスタームーン』の第1章の主人公・綾音は、バイト先の飲み屋で客に「やっぱり、書いてるんでしょ?」と尋ねられ「いいえ、まだです」と答えたことで、初めて自分が小説家になりたいと思っていることを自覚する。金城一紀の短編『太陽がいっぱい』の主人公は親友から数年振りの電話を受けた日、かつて親友と観た映画の原作を偶然手に取り、それがきっかけで小説を書く。

 

そういった僥倖と言えるようなドラマチックなきっかけは、24年間生きてきて、自分の人生に訪れたことはない。残念ながら今後も訪れない気がする。そして今更気づくこととして、そしてきっかけなんて必要ない、と思う。

 

正直に言うとこんな創作へ向かう個人的な内面の変化、みたいな文章は書きたくなかった、普通に恥ずかしいから。それに本当に憧れる作り手にはひたすら作品だけを作り続けてほしいし、私生活や創作の裏側の苦労なんて知りたくない、創作物と名前だけを残して死んでいって欲しい、という人間なので。しかし真っ向から矛盾するけれど、創作の裏側のリアルに迫ったドキュメンタリーは大好物だし、そういった「生みの苦しみ」みたいな側面を知った方がその人が創った創作物もより身近に、より血の通った美しい物に見えることもある。

 

多くを語らず、作品だけで勝負する、なんて仙人みたいなカッコいい人間になれないこともよく自覚している。どこまでも俗っぽく、欲も惨めさも全て曝け出すつもりで、とりあえず残りの二十代をジタバタと過ごすつもりだ。あと最近になって、のんびりすぎる自分の性格もようやく把握し始めたので、生き急ぐくらいが丁度いいのかなと思ったりする。

そのうち、この文章も含めて、また過剰な自意識のせいで全てが恥ずかしくなり、全部消してしまうかもしれない。それでも何か始めないことには何も始まらないし、つまらない人間のままこれ以上歳を重ねるのは苦痛で仕方がない。いや、苦痛どころか何も感じないまま、ゆっくり死んでいくんだろう。学生の頃からずっとそうだった。ステージ上で必死に表現している人をどこか冷めた目で見てしまう自分、そしてそんな自分を俯瞰して観察している自分。何か頭に引っかかったまま、けれど自分は人前に出るような人間じゃないし、と言い訳したり、こんな人間のやることなんて誰も見向きもしないし、誰も喜ばない、と決めつけてしまう。そう、誰も喜ばないだろう。そもそも誰かを喜ばせようなんておこがましい考えは要らない。自分の創った何かで、自分が満足できればそれでいい。実際、自分が過去に書いた文章や音源を見返したとき、救われたような気持ちになったことが何度かある。過去の自分の創作に救われる、こんな素晴らしいことがあるだろうか。全ては自分のため、自分を救済するためにやろう。文章を書こう。

 

ベトナム旅行記②

 

◯2日目

朝はのんびり起き、近くの店でまたフォーを食べる。さっぱりした味なのでさらっと食べられるし、何回食べても飽きない。一応こっちの主食なんだから飽きるわけないか。昨日より暑い気がするのでTシャツとタイで買ったステテコみたいなパンツという格好で出かける。

 

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でかいスーパーマーケットに入ってみた。日本とそう変わらない。インスタントフォーの売り場が20メートルくらいあった。フルーツと野菜の種類が豊富。サッポロビールが強い。

 

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日本製品は日本語標記のまま普通に売られていたりする。ちぐはぐな感じが絶妙な雰囲気を醸し出している。ボトルのラベル、Vaporwaveを感じる...。

 

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コン市場で香辛料やら果物を物色し、アボカドジュースを飲んでみる。その場で氷とミキサーにかけ、煉乳を混ぜたものが出てきた。美味しいけど濃厚すぎて飽きた。親切なおばさんにお金を細かく両替してもらう。

 

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バスでホイアンへ。砂埃にまみれた黄色いバスが目印。運賃は2万ドンと聞いていたので用意して身構えていると、バスが郊外に出た頃車掌のおばさんが3万ドンだ、と伝えてくる。2万ドンって地球の歩き方に書いてあったぞ!2万でしょ⁉︎と日本語で言ってみるが当然伝わらず、早く払えという感じなので渋々3万払う。見回すと、周りの人も3万払っており値上がりしたのか、と納得しておくことにした、が、帰りは何故か2万ドンで乗れた。なんだったんだ…

 

ちなみにベトナムの貨幣はインフレの進み過ぎで、単位がおかしくなってる。そしてめちゃめちゃ物価が安い。円への換算は「0を二つ取り、半分にする」が基本。つまり30,000ドン=約150円である。150円で30キロバスに乗って移動できるんだから大したものだ。1万ドンくらいのぼったくりなら許してしまう。

 

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バス停からタクシーに乗り、降りたらすぐ「日本橋」があった。世界遺産の一部である。ライトアップのタイミングには合わなかったが見れてよかった。通行するにはお金を取られるようだ。2万ドン札の絵にもなっている。あとベトナムの煙草は割と美味しい。

 

そしていよいよ旅行のメインである、夜のホイアンへ 

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ホイアンは美しい街だった。世界遺産の旧市街地を含め、街全体がお祭り騒ぎのような賑わいだった。毎日こんな熱気の中にいたら疲れちゃうよ、と心配になるくらい。人と光で溢れている。どこを歩いてもランタンの灯りでいっぱい。路上で謎の演劇をやっているのを見た。独特の雰囲気があってよかった。

 

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露店でマンゴーを買って食べたり、様々なビールを飲んだりした。333(「バーバーバー」)やサイゴンビールはさっぱりした薄い味。現地の料理に合うが日本のビールに慣れてると少し物足りない。ビア・ハノイは美味しかった。けど結局ハイネケン大好き人間なので後半はそればかり飲んでた。

 

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街を歩いていると、おみやげ物屋や宝くじ屋、観光船の斡旋屋からひっきりなしに声を掛けられる。写真は行商人のおばさんたちを撮ろうとしたら「買って!」と襲いかかってきた瞬間。笑える。

 

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夜中まで歩き回り、2泊目はホイアンのホテルに泊まった。街の中心部にあり、なかなかにいい宿だった。観光船に乗せてくれたり、無料のマッサージを受けられたりとサービスがすごい。マルクスは今年まで生きていたのか…

 

 

◯3日目

 

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翌朝は観光船に乗り1時間くらいのクルーズへ。ぬるいコーラを飲みながら川辺の風景を見るのは風情があって良い。リゾートの開発が進んでいた。

 

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バイン・ミーという現地のサンドイッチが美味しかった。具だくさんで食べ応えがある。フランスパンなのはやはりフランス植民地時代の影響なんだろうか。ベトナムコーヒーは練乳たっぷりでかなり甘い。有名なジャコウネココーヒーがあった。実際は猫ではなくイタチのフンらしい。またバスに揺られてダナンに戻り、おみやげを見るなど。店によっては普通に日本語が話せる店員さんがいる。やはり日本からの観光客は多いらしい。洋風なメニューのあるご飯屋では、真っ赤に日焼けした欧米人たちが嬉しそうにでかいピザを頬張っている。お前らどこの国に来ても絶対ピザ食べるんだな...

 

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またスーパーに入って商品を眺めていると、隣にあった飲食店が気になった。 遠目から見ると回転すし屋に見えるんだけれど、覗くと流れているのは肉や野菜などの具材である。食べている人をみると、テーブルにある穴に鍋を置き、具材を茹でて食べている。すき焼きというか、しゃぶしゃぶみたいな食べ方だった。面白い。セルフすき焼き屋。映画「ロスト・イン・トランスレーション」ですき焼き屋に入った2人が最悪だったね、自分で料理する店なんて、みたいな会話をするシーンがあったが、やっぱりアメリカ人からしたらこういう鍋をするという概念はないんだろうか。

あとアオザイは最高。

 

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健全なマッサージを受けた。大喜びスパってなんだろう。腰と背中の60分コース。ツボをガンガン刺激されて泣き叫びながら赦しを請う感じのハードなやつを期待してたんだけど普通に気持ちよかった。

 

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 時々ホー・チ・ミンの写真が飾られているのを目にする。やはり建国の父はいつまでも尊敬されているらしい。ベトナム国内でも一部では評価が分かれている、とも聞いたけど。台湾でいう孫文、インドのガンディー的な立ち位置なんだろう多分。

あとたまに見かけたパチモン商品が面白かった。NIKEのパクリで「NIKA」と書かれた靴下や、auとそっくりな携帯ショップのロゴをよく見ると「α」だったり。

 

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 ダナン空港からハノイを経由し、日本へ帰国。ダナンを出発する直前にひどい雷雨の影響で飛行機が少しだけ遅れてヒヤッとした。観光中はずっと快晴だったのはラッキーであった。やはり食べ物が美味しい国は行くだけで楽しい。途中で乗ったバイタクシーでぼったくられたのも含めていい思い出。ホイアンの夜は本当に素晴らしかった。異国情緒を十分味わえて良い旅行になった。

 

 

ベトナム旅行記①

 

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 GWを利用してベトナムへ旅行に行った。日程は2018年5月3日〜7日。とは言っても3日の深夜に羽田を発ち、7日の早朝に成田へ帰ってきたので現地で過ごしたのは実質3日間。5月4日から6日の3日間の記録。

 


◯1日目

1:25羽田発。機内は8割くらい席が埋まっていた。座席のモニターで映画が観れたので旧作の方のブレードランナーを見た。少し前に「2049」を見たせいもありもう一度旧作を見たかったので良かった。何度見ても面白い。結局冒頭の屋台のシーンでデッカードが「4つくれ」と注文してる食べ物はなんなんだろう。

 

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現地時刻5時過ぎにタンソンニャット空港に到着。ベトナム南部にある都市ホーチミンの空港。時差で2時間巻き戻っている。一度ターミナルから出ると、朝なのにもう暑い。30℃近くあった。日本の夏より湿気が多く、体にまとわりつく蒸し暑さ。大体昨年行ったタイと同じ空気。

空港を散策してベトナム航空の国内便に乗り換え、中部の都市ダナンへ。ベトナム航空の乗務員さんの制服は機体と同じ青色のアオザイだった。最高。1時間半ほどかけてダナン空港へ到着。快晴であった。

 

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今回はこのダナンという街が拠点。ベトナムには世界遺産が8つあり、そのうち「フエの建造物群」「ミーソン聖域」「古都ホイアン」の3つはダナンから日帰りで行ける距離にある。南北統一鉄道に乗りフエに行く案、ミーソン遺跡と五行山を見て回る案などを考えたけれど、直前で面倒くさくなり結局「食い倒れの旅でよくない?」という安易な考えにより観光地はホイアンしか行かなかった。日程的にこれで正解だった気がする。フエ行きたかったけど。

 

空港で少しだけベトナム通貨のドンに両替し、タクシーで市街地へ。運転手のおじさんは少し英語が出来たけれど、こちらが全然話せないため会話にならない。なんとか目的地を伝えて走り出したものの、ひっきりなしに早口のベトナム語でなんか言ってくる。全然わかんないよ〜と困っていたらおじさんが携帯を取り出し、なにやらアプリを立ち上げる。そしてこちらに渡すので見ると「ベトナムに来たは初めてですか?」と日本語が表示されている。非常にありがたい。通訳アプリを使って色々と会話した。親切なおじさんはあの建物は博物館、あの船みたいな建物は実は船じゃなくてレストランだ、などと通り過ぎる風景を解説してくれた。80キロ以上出して飛ばしながら携帯を使うのでハラハラしつつ楽しくお喋りした。

 

市街地に着き、とりあえず街をうろつく。バイクが多い。でかい交差点ではおびただしい数のバイクが行き交っていて活気がすごい。しばらく街を歩き、目に付いた食堂に入ってフォーを食べた。びっくりするくらい美味しい。

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フォーにも何種類かあり、「フォー・ガー」は鶏肉が、「フォー・ボー」は牛肉が載っている。麺が入った器とは別に野菜がどっさり乗った皿が一緒に出される。この野菜を麺の皿に移し、ライムを絞ったり辛味を入れたりして好みの味にして食べる。

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旅行を通じて4食くらいフォーを食べたが、最初に入った店が一番美味しかった。店ごとに麺の太さや味付けに差があって面白い。

 

近くにあった「ハン市場」へ入ってみた。

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雑多な感じが東南アジア感あって良い。かなり広く、2階建てのフロア前面におびただしい品物が置いてある。1階が食べ物、2階が金物や衣類、おみやげものなど。旅先のテンションでサングラスを買おうとしたら明らかにぼったくりな額をふっかけられたので買わず。気軽に「How much?」と聞くとこいつ相場を知らないな、と足元を見られる。店の人たちもしたたかである。

 

街を歩くとベトナムにはサラリーマンはいないのか?と思えるほど個人商店が多く、コーヒーショップ、食堂、バイク修理屋、コンビニなど小さな間口の店がぎっしりと並んでいる。観光客と一目でわかる我々のような人間が近づくと景気良く声をかけてくる。しかし、遠目から観察していると店の前の椅子に座り携帯を見ながら煙草を吸ったり、コーヒー屋では店主と思われる人が客とボードゲームに興じたりしている。後で調べたら「像将(シャンチー)」というゲームらしい。気ままにのんびり生活している感じが羨ましい。商売っ気があるのか無いのかよくわからない。


この後も街を歩き、日本語ができるスタッフがいる、という旅行案内所を探したが見当たらない。近くの警備員さんや目に付いたホテルのロビーの人に尋ねるが、みんな全然バラバラな建物を教えてくれる。結局あきらめ、コーヒーショップに入って休んでからホテルに向かう。

 

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ホテルに着き、ドアノブを掴んだ瞬間破壊したが気にしない。窓からわずかに東シナ海が見える。

 

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スターウォーズのエピソードⅠをやっていたので当然観る。幼少アナキン可愛い。このレースの実況役の二つ頭のキャラ好き。

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コンセントは変換器がなくても使える。スーパーで適当に買った謎のデザートが美味しかった。上は甘いヨーグルト、下はあずきかと思ったら黒米らしい。路上でもたまに売っていた。

 

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夕暮れのビーチを散歩した。この時間でも観光客が溢れている。なかなかに美しかった。

 

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夜のダナン。活気がすごい。ネオンがいちいち派手で見ていて飽きない。

ハン川のナイトクルーズ船に乗るつもりだったけれど、乗り場が分からず結局断念。アイスクリームを食べながら川辺をうろついて涼んだ。セグウェイに乗って遊ぶ若者、ラジカセから音楽を流して踊るグループ、写真に夢中なカップルなどみんな思い思いに遊んでいていい雰囲気だった。

ホテルに戻り、翌日乗るホイアン行きのバスを調べてぐっすり寝た。

 

『スターウォーズ 最後のジェダイ』を観た

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面白かった…。2Dの字幕版を2回、4DXの字幕版を1回観た。ようやく書いてもいい気がしてきたので文章を書く。

 

「ローグワン」が傑作と評され、一方で「フォースの覚醒」がいまひとつ評価されていない感じに納得してなかったけど(実は自分も「フォースの覚醒」は初見でイマイチ…となってたけど2回目で良いじゃん…となった)、本作は古参のファンも満足いく作品だったと思う。

エピソードⅦに文句をつけていた人間は、おおよそ次の3点が気に食わないのかなと思う。①主人公が女性で、相手役もよくわからん黒人(しかも元ストームトルーパーの中身)②ハン・ソロが死に、ルークが全然登場しない③ダークサイド勢が小物(カイロ・レン君が雑魚)。①については、ついて来れてないだけだ。流石にスカイウォーカー家の話を新3部作でやる訳がなく(見たい気持ちも分からなくはないが)、新たな長編の始まりとして女性を主人公に据えたのは大胆で鮮やかだなと思う。レイとフィン、血筋も前段となるエピソードも持たない「名もなき人」たちが銀河の片隅から壮大な物語を始める。新3部作は「普通の人」が英雄になれる。それを思い切った配役と設定で示し、「Ⅷ」でもローズというただのレジスタンスの整備士のひとりに過ぎない人物の活躍を描いたことに現れている。②は、このインタビューレイアの死、ルークの帰還──『スター・ウォーズ:最後のジェダイ』制作秘話 | WIRED.jpを読むとマーク・ハミルもちょっと文句を言ってて面白い。最後には認めてるんだけど。「覚醒」撮影時にせっかく身体仕上げたのに登場がラストシーンだけだった、というエピソードも最高。③に関しては、レン君の人間くさい面がさらに掘り下げられたせいかレン君結構好きになった。ルークへの復讐心とダースベイダーへの憧れ、力への欲求からくるダークサイドへの帰属と、両親への捨てきれない想い、ライトサイドへの心の揺らぎ。最高指導者にはボロカスに言われ、「君の名は。」みたいな繋がりが生まれたレイにはライトサイドへの帰属を説得されそうになる。メンタルは相変わらず不安定である。そしてもちろん相談できる仲間もいない。クソ雑魚ハックス将軍は各方面からナメられてて笑える。そして本当に、スノークとは結局何だったのか…。

やや「Ⅶ」の話題に傾いてしまったが、最後のジェダイ公開前に誰もが考えた事といえば「最後のジェダイ」は具体的に誰を指すのか?という疑問だろう。作中のクライマックス、それはルーク自身の台詞で語られる。カイロ・レンと対峙したルークの発した「最後のジェダイは私ではない」という台詞、そして「また会おう」(「See you around,kid」)と言い遺して消える最期…。本当にかっこよくて痺れた。一方、レイは無数の岩をフォースで持ち上げ、レジスタンスを逃がして活路をつくる。新旧・師弟のジェダイが終わり、また始まる世代交代の瞬間だ。

ルークについては、個人的にはその前段の「素晴らしい!その言葉の全てが間違っている!」という強烈な台詞も含めて大好きなシーンとなった。今作で印象的だったのが長い隠遁生活の影響か、ルークおじいちゃんがすっかり茶目っ気たっぷり、というか捻くれじいさんになっていたところ。オビワンやヨーダ然り、ジェダイのさだめなのだろうか…と笑った。レイをおちょくり、カイロ・レンをおちょくり、やりたい放題である。レイの修行のシーンで、瞑想したレイの「あなたからはなにも感じられなかった」との言葉から、もうフォースの力を完全に閉ざしてしまったと思いきや、あのクライマックスの戦闘シーンである。クワイ=ガン・ジン(とオビ=ワン)vsダースモール、ヨーダvsドゥークー伯爵、そしてオビ=ワンvs闇堕ちアナキンのような、名シーンと呼ばれるセーバーでの戦いに匹敵する、痺れる格好良さだった…。今回に限っては、言ってしまえばルークは実体はない(霊体)のでレンの攻撃を避けてるだけなんだけど、口先とオーラだけでなんかもう圧勝してしまった感じがある。

 

やはりルークのことに重点を置いた文章になってしまうんだけど、本作では他にもレイアのフォースによる宇宙遊泳、ホルド提督によるハイパースペースジャンプの特攻など見所はたくさんあった。

また、レイの両親は何者だったのか、本当に飲み代のために娘を売るような人間だったのならあのフォースの力はどこから来ているのか。ラストのフォースを使ったように見えた少年は誰なのか。まだ明かされていない謎は多く、Ⅸ以降やスピンオフにも期待が高まる。

 

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最後に。旧3部作の頃の写真だけど、もうほとんどの人物が物語を去ってしまったのは寂しい。ハン・ソロはⅦで、ルークはⅧで死を迎え、キャリー・フィッシャーは亡くなってしまった。ルークは先代たちのように霊体となって現れるだろうし、レイアもローグワンの時のようにモーションキャプチャーを使って登場するかもしれない。でも生の演技はもう見れない。旧スターウォーズを象徴する人物たちが退場していき、相変わらずレジスタンス軍は壊滅的なやられっぷりである。「新たなる希望」であるところのレイたちの活躍と胸のすくような展開に期待したい。40年以上に渡り続くこのサーガだけれど、本作のルークの言葉を借りれば、この戦いはまだ始まったばかりなので。

 

 

2018.2.4 追記

どうやら「エピソードⅨ」にキャリー・フィッシャーは登場しないらしい…

(参照:https://rocketnews24.com/2017/01/30/855297/)

割と悲しい。レイア姫役だけではなくⅧには脚本としても参加してたようで、ホルドとレイアが「フォースと共にあらんことを」の台詞を被って言ってしまい笑い合うシーンも彼女の発案らしい。好きなシーンのひとつだ。新作の撮影は2018年1月から始まっているらしい。楽しみにしたい

一番強度の高いメディア

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先日、映画「ブレードランナー2049」を観た。本当に美しい映画だった。大作のSF映画に期待されてそうな派手さはないけれど、圧倒的な映像美と「自分は何者なのか」という哲学的な問いを追求するストーリー、終始漂う物悲しい雰囲気、ラストの主人公の選択、どれも素晴らしかった。

この映画の舞台となっている2049年では、過去の「大停電」と呼ばれる出来事により電子化されたあらゆる情報が失われており、残っているそれ以前の記録はごく僅か、という設定である。この「大停電」については渡辺信一郎監督の短編アニメ「ブレードランナー ブラックアウト2022」を観ると事件の概要が分かる。簡単に説明すると一部のレプリカントが「核ミサイルの電磁パルスであらゆる電子機器を破壊」し、「同時に磁気システムを使用するセンターのバックアップは6発の爆発により消去される」ことによりデータを吹っ飛ばしたらしい。要するにテロで物理的に全部破壊した。

「自分は何者なのか」。人間なのか、レプリカントなのか。誰から生まれ、この記憶は誰のものなのか。主人公には断片的な記憶しかない。ブレードランナーとしての任務として、過去の記録を調査しにウォレス社を訪れるが、大停電を経て生き残った記録はほとんどない(本などの紙媒体は残っている)。食料の供給からレプリカントという労働力まで、全てをウォレス社が支配するディストピア。記録が失われているために参照できる記録がない状況で、身寄りも無く、自分の過去を尋ねる相手もいない主人公は、わずかな手がかりを辿って記憶の真相に迫っていく。

「2022」の中で、レプリカントの有志はデータを破壊することで製造番号などの記録を抹消し、人間とレプリカントの境界を壊した(外見では2者の違いはわからない)。実際に「2049」でハリソン・フォード演じるデッカードは人間かレプリカントか最後まで分からない(リドリー・スコットがインタビューで「レプリカントだ」と普通に話してたけど…) 。大停電はある程度成功したということだ。高度に発達し、あらゆるメディアが電子化された社会でそのデータが失われた、そんな設定で作られるディストピア。SFだけど、それなりに起こり得そうでリアリティを感じてしまう。

 

最近やたら引用していて恐縮だけれど、恩田陸が少し前にこんな文章を書いていた。

数年前、紙問屋の社長さんと話していた時に「記録媒体として何がいちばん優れているか」という話になった。社長さんは「和紙に墨で書いたもの」と即答した。なぜならば、歴史が既にそのことを証明しているから。確かに、初めてワープロフロッピーディスクが登場した時は、これがこれからのスタンダードになると思ったのに、その寿命は短く、たかだかここ二十年くらいのあいだに、めまぐるしく記録媒体が現われては消えていった。しかも、それらに書き込んだデータは予想以上に劣化のスピードが速く、いつ消えても不思議ではないのだそうだ。おまけに読み出す機械と電力がなければ、中に何の情報が入っているのかすら分からない。だとすれば、世界から文明が消滅した未来、やはり常野一族の末裔がかつての人類の取ってきた方法通り、こんなデジタル技術の時代などなかったかのように、人々の記憶を伝えつづけているのかもね、と思う今日このごろなのであった。

 

舞台「光の帝国」HP イントロダクション

http://www.caramelbox.com/stage/hikari-no-teikoku/

 

 常野物語シリーズは全て読んだわけではないのだけれど、簡単に説明すると常野一族は特殊な能力を持つ人々で、それぞれひっそりと普通の人間に溶け込んで生活している。上記の演劇の脚本になっているのは、一度読んだだけで完璧に文章を記憶できる、文章を「しまう」という能力者のエピソード。

文章の中の最も優れた記録媒体の話題で、和紙に墨で書いたもの、との答えが紹介されている。そして、歴史が既にそのことを証明しているとも。確かに、フロッピーやVHS、MDなど、まだ二十数年間しか生きていない自分もいくつかの媒体が消えていくのを目にしている。もし、今後ブレードランナーの大停電ような厄災が起こったとき、生き残る記録といえば紙に書かれた文章や、石に刻まれた文字や記号のようなものかもしれない。もしかしたら人類の滅亡の方が早いかもしれないけれど。