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深夜特急〈1〉香港・マカオ (新潮文庫)

深夜特急〈1〉香港・マカオ (新潮文庫)

 

一体どれほどの人を放浪の旅へ誘ったかわからない、傑作旅行記深夜特急』。バックパッカーたちのバイブルである。沢木耕太郎が2万キロ以上に及ぶ壮大な旅に出たのが1970年代前半のこと。

当時携帯電話はもちろん無く、ミャンマーはまだビルマと呼ばれている。最初に訪れた香港はまだイギリスの領土であり、放浪する人々はトラベラーズチェックを使っているような時代だ。インドのデリーからロンドンまで乗り合いバスで行く。これは目的というより手段の話のように思える。友人と賭けをしたから、以上の大した理由もない。「真剣に酔狂なことをやる」という面白さ。あと単純に文章が上手くて、風景描写や街の人との会話や出来事が目に浮かぶようだ。

自分が海外旅行をする度に旅行記を書いているのは、きっとこの本が頭にあるからだと思う。


僕が一番気に入っているのは単行本版の1巻である。沢木が香港の廟街を訪れたときのあの描写、旅の醍醐味の全てが凝縮されている。あれほどに熱気と興奮を伝える文章にはなかなか出会えない。人の賑わいが作る見渡す限りの喧騒。「体の芯まで熱くなる」感覚を味わいたくて、この街を見るまでは死ねないな、と思っている。僕には8歳年上の従兄弟がおり、彼はいくつもの旅行代理店業界を渡り歩き自身もアジアの観光地はほぼ制覇している旅行フリークだ。少し前にベトナム料理屋でこのシリーズについて語りまくった結果、やっぱり1巻が最高、と意見が一致した。

1巻を読んで一番感銘を受けたのはなんといっても廟街のシーンなんだけれど、もう一つは沢木が心の底から自由を実感する、旅に出て間もない香港の朝の場面だ。

周囲に誰も自分のことを知る者がおらず、何かしなくてはならない予定など何もない。どこに行っても、何をしてもいい。怖いほどの自由に身震いする。こんな体験をしてみたい。

僕も何度か海外旅行に出たことはあるけれど、あくまで「旅行」であり、放浪とは程遠い。どこに何泊、ときっちり予定を組み、それに縛られているただのミーハーな観光である。時間も仕事も家族も気にせず、するのはお金の心配程度、期限も行き先も決めてない、そんな旅に出てみたい。…いや、多分一週間程度で根を上げて帰ってくると思う。自由すぎる怖さに精神をやられてしまう。


この旅行記が新聞連載を経て本として出版されたのが1986年。旅行を終え、帰国してから10年以上経ってからここまで詳細な風景や会話まで記録された文章を書けるなんて、沢木氏は映像記憶でもできるのだろうか。沢木耕太郎の著書「246」には深夜特急第一便の出版について書かれている。流石本職がライターなだけあって道中で多くのメモを取っていたようだし、旅先から手紙もかなり送っていたようだ。1986年には『深夜特急』の「第一便」と「第二便」が出版されるが、最初に連載していた新聞には1年間の期限があったため、イランのイスファハンで一区切りすることになり、その時点までの文章をまとめたものらしい。

タイトルを決めるにあたり、トルコの刑務所の受刑者の隠語「ミッドナイト・エクスプレス」=「脱獄」を採用した話も載っているが、直訳すれば「深夜急行」であることを気にしている。

 

ようやく本題。シリーズ最高傑作である『深夜特急』第1巻、香港・マカオ編のあとがきに「出発の年齢」という対談が収録されている。話者は沢木耕太郎と『香港世界』を書いた山口文憲。ここで沢木は「旅に出るには26歳が最も適している」という持論を展開する。

本編第2巻でも、乗り合いタクシーに揺られシンガポールに辿り着いた沢木がベッドに横になりながら、初めて身の上話というか出発前夜の自身の回想をするのだが、ここではフリーライター時代に出会った「最も鮮烈な個性を持った人」に「旅に出るなら26歳だ」と言われた、とある。そして第3巻のあとがきでようやく、それが黒田征太郎というイラストレーターの言葉だったとわかる。最も、26歳に黒田氏がアメリカに渡った、というだけの何の根拠もない話である。

沢木と山口は同じ年の生まれで、二人とも26歳で旅に出ている。山口文憲は26という年齢を「最後の自由のぎりぎりのいい見当」と語り、沢木も「世間知とか判断力がついていて、いろいろなことに対するリアクションができる」年齢だと言う。大学を出て、なにが面白いか、つまらないかを知り、異性のことを知る、などのプロセスが必要だと。確かに世間に無知な18歳とかがユーラシア大陸縦断しても、日本の社会との比較とか出来ないだろうし、単純にひとりで危険もある国を渡り歩くことなんてよっぽどじゃないと無理だろう。中東あたりでテロリストに拘束されそう。

対談では後半「ハワイはいいよね」みたいな話になり、最後に二人で26が旅に出る適齢期、と年齢の話題に回帰してオチにしている。

しかしこういった「根拠はないが、こうだ」と力強く言うだけで、実際に行動を起こした人たちの言葉であるが故になんだか説得力がある。26歳。先日25歳になってしまった自分にはもう来年。一度仕事に就いてしまった自分にはドロップアウトしてバックパッカーになる勇気はないけれど、ニュージーランド旅行中にしょっちゅう見かけた旅人たちは20代から50くらいの人まで様々だった。海外では高校を卒業してから暫く放浪して、大学に入り直し社会に出る人、ふと思い立って30くらいで仕事を辞めて放浪に出ちゃう人、などはいくらでもいるようだ。


最近、身近な26歳が海外で一年暮らしてみる、と言ってビザの手続きなどを進めてるのを見ながら、自分はこの先この地方都市で一生を終えるのか、となんとも言えない感情を抱えている。仕事、家族、世間体、結婚など面倒くさい問題はいくらでもあるけれど、それはあくまで「行かない理由」として一括りにして無視できるものだと思う。度胸さえあれば。その度胸が無いのと、特に手に職がある訳でもないので行かないのだけれど。

放浪の旅に出るとまでは言わないけれど、26歳を目前にして、少し生き方を変えてみようかな、と思い始めている。