状況が裂いた部屋

旅行と読書と生活

ハッピーエンドは欲しくない

 

kindleで読んだので読了メモ。

はてな匿名ダイアリーアノニマスダイアリー、通称「増田」)に時々現れては名文を書き残す、ある日本人男性がその半生を綴った電子書籍

自分がこの人を初めて知った文章は「人生に物語はいらない」だった。

人生に物語は要らない

何度読んでも素晴らしい。淡々としているけれどグルーヴ感があり、少し「オン・ザ・ロード」っぽかった。どこまでも自由に人生を謳歌している姿が心底羨ましい。個人的ベスト増田。特にVR chatを使って遊ぶ描写が良い。インターネット黎明期の毎晩お祭り騒ぎするネットの様子を自分は知らないが、この人の文章からはその頃のような熱狂が伝わってきた。

本書「ハッピーエンドは欲しくない」は、「増田」への初めての投稿が注目を集めたことをきっかけに、筆者がセルフ出版したものだ。筆者が生まれてから社会に出て、ドラッグにハマったりニートになったり海外を放浪するなどして、日本に帰ってきて、本を書くまでが描かれる。


以下は読んだ時の自分のメモ。

 

あらすじ

○ 第一章

主人公は市営団地で育ち、父親と離別して母、姉と祖父の家で暮らす。幼少期にテレビでベルリンの壁崩壊を見た描写があるため80年代生まれか。家庭内は不仲。深夜ラジオで知らない世界を知る。中学で無線部に入り、落ちこぼれたちとバンドをやる。高校は進学校に進んでしまい、育ちの良い同級生にカルチャーショックを受ける。居心地の悪さや父親との不仲から高校を中退。バイトをしながら読書に耽溺。アルコールの問題で母が自殺。社会に組み込まれることに耐えられず何度もバイト先を変える。パソコンを手に入れ、黎明期のインターネットにどっぷり浸かる。プログラミングを覚える。2ちゃんねるに入り浸り、ネットの掃き溜めで居心地の良さを感じる。ケミカルドラッグに手を出し、トリップを繰り返す。バイトも辞め、極限まで堕落。ある日の超絶トリップで我に返り、社会復帰をする。この時期が二十歳頃。


○ 第二章

荒れた生活から社会復帰。派遣で工場に勤めたのち、会社の事務所でシステム開発に従事。英語とプログラミングを勉強。この頃ニコニコ動画が流行る。仕事を辞めドラッグ再開。借金が嵩み、夜逃げして大阪へ。ホームレスになり公園に寝泊まり。西成などで炊き出しで食い繋ぐ。どこまでも気楽な底辺生活。ある日話しかけてきたおじさんの勧めで役所の福祉課へ行きホームレス収容施設に入所。再び働き始めて社会復帰。京都に住むプログラマに。


○ 第三章

仕事を辞め、海外放浪を思い立つ。本籍を京都タワーに移し、バックパックひとつで出国。タイのバンコクを歩き回る。ブログを書くなど。

既存の社会の外側を目指す社会不適合者に共感する。現実の拡張を目指す人々。

「こうした驚くべき航海はもっぱら……この世捨て人たちが浮世の騒ぎや誘惑に悩まされることなく、平和に暮らすことのできる人里離れた場所を発見しようとする願いから企てられたものなのである」──ジョン・クラカワー『荒野へ』

【旅程】

(タイ)バンコク→(カンボジアアンコールワットプノンペン→(ベトナムホーチミン→ダナン→(ラオス)サワンナケート→パークセー→シーパンドーン→(タイ)バンコク→(インド)コルカタ→バラナシ→カニャークマリ→チェンマイ(タイ)バンコク→(日本)大阪

インドではたくさんの経験をする。ぼったくりの客引き、適当なリキシャ、物珍しいのか外国人に必ず話しかけてくる人々。ガート(沐浴場)で火葬を見たり、プージャー(ヒンドゥーの儀式)に参加したり。ゆったりとした時間の流れの中で、筆者は世の中についての摂理を考察する。そしてプリミティブなエネルギーに魅入り、少しずつ感化されていく。半年で5カ国を巡ったこの海外放浪は2011年ころ。

 

○ 第四章

新今宮に住民票を写し、プログラミングの基礎を学ぶため職業訓練を受ける。旅行者向けのアプリ「PLANetter」を作成。京都の企業で社内エンジニアとして勤務。リーダーとしてシステムを完成させた後、仕事をばっくれて西成のドヤへ戻る。文章を書きまくり、本書を出版。


波瀾万丈なストーリー(ほんとに実話か?ってくらい)はもちろん凄いが、第三章のバンコクの克明な描写などは沢木耕太郎の「深夜特急」に匹敵するほどの熱量だ。なんて上手いんだろうか。

作中、筆者は自身の価値観が書き変わっていく実感を何度も味わう。西成での路上生活、ベトナムで触れた戦争の記録、インドの影と光。やはり人の旅行記を読むのは面白い。ひとりの人間が、旅から何かを受け取り、自身の内面が変わっていく様子を見るのは興味深い。それは価値観だけでなく、もっと根源的な、何かをやろうとする気力であったり、生きることに向かうモチベーションだったりする。

前半の筆者は、いくつも仕事を変え、環境を変えて、徹底的に世の中の"普通"を外れていく。その根底には「他人の評価や物語を押し付けられたくない」という考えがある。ドラッグに溺れ、自己破産してホームレスになり、どん底を経験する。物語の後半の筆者は、放浪を通じて世界の広さを知る。大切なのは敵を見定めて、決して隷属せず、納得できる生き方を選び取ること。数々の経験からヒントを得て、それらを俯瞰できるようになってようやく、筆者は自分がどう生きたいかを知る。

ただ漫然と生きるのではなく、生き方は選べる。やりたいことをやり、自分のしたいように生きる。それはとても難しいようだが、どんなリスクを背負っても自分の選択を優先するのが納得のいく生き方なのだ。

この筆者は増田の中では割と有名なようだ。自分はエンジニアの世界は分からないが、きっとシステム開発者としても優秀なんだろう。在野の物書き、というか完全に趣味で思い付いた時にネットで近況報告する、野良のエンジニアってめちゃくちゃかっこよくないか。きっと狙ってもこうはなれない。飄々と人生を楽しむ身軽な人間、こういう特異な存在が時々見つかるからネットは面白い。

三者の方がまとめた時系列↓

「人生に物語は要らない」リンク集 - snowlongの日記

東京滞在記

2024年6月18日〜22日、5日間の東京滞在記録。

内容は4日間出張+1日遊び。毎日の電車移動中に書いたメモを編集した。

 


・6月18日

8時台の上越新幹線で東京へ。新潟駅→東京駅は始点から終点まで乗るから気が楽だ。南魚沼あたりから雨が降り始め、高崎を過ぎた頃から大雨になった。東京から新橋へ山手線、ゆりかもめに乗って今回の出張先へ。雨のレインボーブリッジを渡るのは初めてかもしれない。お台場から都心部が霞んで見えないほどの強い雨だった。幸い屋根があり濡れることなく仕事場へ。

18:30頃業務が終わり、新橋へ。適当なラーメン屋に入ったら全然美味しくなかった。ニュー新橋ビルで軽く飲もうかとも思ったが翌日が仕事のヤマ場のため我慢する。

高輪ゲートウェイの駅舎は建ったばかりで綺麗だったが店舗はスタバしかない。あと無人のコンビニ。軽く周辺を散策したが何もない静かな地域だ。坂が多い街だった。ビルの建造が進む。

宿は高輪ゲートウェイ駅前のアパホテル。なぜそんな変なとこに…と自分でも思うが仕方ない。東京のホテル価格の高騰は酷いものがあり、職場から出る宿泊費内で泊まれる宿(かつ、大浴場付き)を探した結果、駅前に繁華街がない高輪になってしまった。本当は大井町あたりに泊まりたかった。それならりんかい線ですぐ仕事場へ行けたはず。

大浴場がある宿を選んで本当に良かった。サウナは無かったが仕方ない。ジェットバスに10分くらい浸かる。風呂から出ると「21F展望フロア」と表示があり、どんなもんか覗くと見事な夜景が見えた。東京タワーが正面に見える。思いがけない景色に少し感動してしまう。22時半に就寝。

 

 

・6月19日

起きて窓を開けたら快晴だった。朝の山手線はどれほど混むのか恐々乗り込んだが大したことはなかった。かなり早い時間帯だったからかもしれない。新橋でゆりかもめに乗り換え。昨日は雨で霞んでいた摩天楼がよく見える。晴れた日の都心のビル群が青空に映えて美しいなと思う。

仕事的にはこの日がヤマ場だったがなんとか無事終了。ゆりかもめで新橋へ向かう途中で、ちょうど夕日が沈んでいった。ビルに反射する陽が眩しい。

19時にSL広場で従兄弟と合流。奥さんも連れてきていた。初対面。3人で中華料理屋でひたすら飲む。従兄弟とは5年ぶりくらいだったが会話が弾み楽しい。価値観が似通っていて、たまにしか会わない間柄でも血のつながりを感じる。お祝いを渡せて良かった。山手線で高輪に帰り、風呂に入って23時過ぎ就寝。

 


・6月20日

夜中、悪夢で目が覚める。夢の詳細は思い出せないが、何かを失敗する夢だった。昔はこんなことなかったのに、ここ2年くらい時々起こる。スマホを見ると3:49の表示。二度寝しようとするが眠れない。仕方ないので水を飲み、カーテンを開けてみると高輪駅前の工事現場が見えた。煌々と灯りを焚いて駅ビルを建造している。ヘルメットの作業員が行ったり来たりするのを眺めた。朝日で空の端がもう明るい。しばらくボーっとして、横になって少し眠る。

今日も山手線→ゆりかもめで仕事場へ。山手線一周を時計の針に例えると、自分は毎日4時から5時の間を行ったり来たりしている。

この日も仕事を滞りなく終え、新橋へ。新橋ビル1号館を少し散策し、鳥森口側で適当な焼き鳥屋に入ってひとりで飲む。旨くて当たりだった。21時には帰宅して、風呂に入る。

スマホの万歩計機能を見たら約9,000歩の表示。仕事は移動より立ちっぱなしの時間が多く、流石にくたびれる。22時半に就寝。

 


・6月21日

起きたら外は雨。最後に大浴場へ行こうかと思ったが荷造りの時間が要ると思い部屋のシャワーで済ませる。スーツケースを持ちチェックアウト、3泊した部屋を出て仕事場へ。

長めの出張では体調を崩さないよう野菜を多く食べるようにしている。昼に定食を食べたり、夕飯にサラダを追加するなど。しかし仕事場周辺にジャンクな飯屋しかなかったため、普段買わないコンビニのチキン入りサラダをよく食べた。高い。

この日で業務は無事終了した。18:15に仕事場を出る。友達と会う予定があるため横浜方面へ移動。りんかい線で国際展示場→大井町京浜東北線で関内。激混みなのに奇跡的に座れたため楽だった。関内駅に着いた時点で19:15。急げば居酒屋にいく前にホテルに荷物を置けそうだ。スーツケースを引いてホテルの自動ドアをくぐろうとした瞬間「あのー、いま少し宜しいですか?」と40歳代くらいの男性に声をかけられる。話を聞くと、朝財布を失くしてしまい、警察に届けたけれども見つからず、非常に困っているが頼れる人もおらず、家は東神奈川駅で…話が長く面倒なので「急いでるので」とぶった斬ってホテルに入る。チェックインして荷物を置きながら考えた。あの手の人間は信用してはいけない。東神奈川なら3駅くらいだし、歩いて帰れるのではないか。まあ電車賃くらいなら渡しても良いけど「お礼がしたい」と言って連絡先を聞かれたら厄介だ。まだ外に居たら面倒だなと思いつつ外に出た瞬間「あっお兄さん」と声をかけられたので「急いでるので」と足早に立ち去った。追ってこなかったので安心する。19:30ちょうどに予約していた居酒屋に到着。友達と浴びるように飲んだ。 沖縄料理屋→焼き鳥屋→ラーメン屋と3軒。大黒PAに集う車好きの話、台湾旅行の話、職場が主催するDJイベントの話、ヴェイパーウェイブの話など。ラーメン屋で瓶ビールを飲んでいたら12時を過ぎた。テレビでは「みんなテレビ」というなかなか攻めた内容の番組をやっており、番組内の企画「初めてのストリートファイト」では40代のゲーセンの店員と20代のデザイナー(初対面らしい)が公園で殴りあっていた。あとは元警察官による職務質問されやすい外観の紹介など。

野毛は酒好きにはたまらない素晴らしい飲み屋街だった。桜木町駅から日の出町駅に至る街の数ブロックに飲み屋ばかりの繁華街が形成されている。個人的には「〇〇センター」がたくさんあるのが面白かった。ホルモンセンター、焼きそばセンター、B級センター・・・など。

 


・6月22日

8時頃起床。前日たらふく飲んだ割には体調が良い。ドーナツを食べながらテレビを見る。ロケ中継先で阿佐ヶ谷姉妹が暴れ回り、スタジオがみんなで突っ込む、というドタバタのお笑いをやっていて良かった。

京浜東北線で東京駅、スーツケースを預けて京葉線に乗り葛西臨海公園駅へ。京葉線のホームはめちゃくちゃ遠い。途中に空港みたいに動く歩道がある。

昼前に葛西臨海水族園に到着。家族連れで賑わっていた。なぜ関内に泊まったのにわざわざ千葉近くまで来たかといえば、谷口吉生氏の建築物を見るためだった。

葛西臨海公園には谷口吉生氏が設計した建物が2つある。水族園と、展望レストハウス(通称「クリスタルビュー」)だ。どちらもガラス張りが特徴の美しい建物だ。

特にクリスタルビューは素晴らしい建物だった。公園の一番海に近い位置にあり、この建物をくぐると一気に海が見える。全面ガラス張りのため、快晴の日は建物全体が空の青を映している。無料で入場できて、2階からは眼前に広がる広場と海が見渡せる。GoProを片手に2時間ほど歩き回る。隅々まで建物を観察し、満足して駅でバーガーキングを食べ、新幹線で帰宅した。

 

大学生活を振り返る:⑤ 春が散るとき

 

物事の終わり、もしくは終わりの予感に対して感傷的になること。当時、明確に定義できていなかったが自分にはその性癖があった。割と最近になって「感傷マゾ」という言葉を知った。たぶんこれだろう。

大学4年になると、ぬるま湯に浸かった大学生活の終わりが段々と見えてきて、なんとなく気分が沈んだ。4年の春頃からすでに「来年桜を見る頃にはもう学生じゃないのか…」などと考え、夏に内定が出た頃には「2ヶ月もの夏休みを味わえるのも、人生で最後かもしれない…」などとダウナーな気分になっていた。

秋になると、寂しさに拍車がかかった。3年の春は教育実習、3年の秋から4年夏までは就職試験の勉強で割と忙しくしていたので、感傷に浸る暇もなかった。それが内定を機に、時間を持て余す完全に暇な学生になってしまった。しかしこの暇には期限がある。卒業をすれば否応なしに社会に放り出される(自分で選んだのだが)。執行猶予のような期間。ゼミに出たり、卒論を書く以外の時間は、延々とゲームをしたり漫画を読んで過ごした。

大学生活でやり残したことを考えたとき、大学3年の秋に就活を理由に脱退してしまったバンドのことが浮かんだ。そのバンドは自分が離れてから演奏の上手いラインナップで固定されていたので、別でバンドを組むか…とも考えたが、あと半年もすれば社会人になるタイミングで、新しいことを始める気力はなかった。思えばここで始めることは全然遅くなかった(結局就職した直後にバンドを始める)のだが、今更感があり一歩が踏み出せなかった。卒業旅行でニュージーランドに行く予定を立てたので、その資金を貯めるため短期バイトを繰り返した。そして映画をたくさん観たり、小説を読んでみたりした。夜になると適当に深夜徘徊を繰り返す日々だった。

 

f:id:ngcmw93:20240416224620j:imageそして3月。ついに卒業の時期になり、学生たちがだんだんと学生街を去っていく。最後だから、と送別会の名目で集まって飲み会をする。もう会うことはないかもしれない同期たち。いつものように馬鹿話をして、じゃあね、とみんな去って行った。

ひとり、またひとりと友人が街を離れていくのはとても寂しかった。前の週まではあんなに賑やかだったのに、ある日学生街がしんと静かに感じた日があった。皆次の人生を送る街に引っ越したのだ。このがらんどうのアパート街も、4月になればまた新しい大学生たちで溢れる。その繰り返しなのだった。なんとも言えない空虚さと寂しさでいっぱいになった。

この「大学を卒業して、社会人生活が始まるまでの人生最後の春休み」のエモーショナルさが忘れられない自分は、このシチュエーションで小説を書きたい、と構想を温め続けてきた。この時期を舞台とした作品は映画『アメリカン・グラフィティ』、小説『フランチェスコの暗号』くらいしか思いつかない。どちらも青春のタイムリミットを目前にした若者たちの、輝かしくもどこか切ない、とてもキラキラした作品だ。こういう物語を書きたい。たぶん自分の拙い想像力だけではこんな話は書けないので、実際に体験した大学4年の2月から3月、あの青春の瀬戸際で過ごした日々を思い返して、いいところだけを抽出し、なんとか作品に落とし込むしかない。たぶんそれができるのは、薄れていく思い出をまだ覚えている今しかない。そんなことを思って、大学生活を振り返った。


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大学生活を振り返る:④九州ひとり旅

 

またひとり旅行の話。大学4年の8月半ばに内定が出てようやく就活が終わった自分は、旅に出ようと思い立ち福岡空港行きの航空券を取った。どうしても行きたい場所があった訳ではなく、当時関西より西に行ったことがなかったため、西日本で行きたい街である長崎、福岡、広島のうち前2つをまとめて行ってしまおう、と考えたからだ。

当時、従兄弟が福岡に住んでいたため一泊くらい泊めてもらえるかも、という魂胆もあった。しかし連絡したところ「いま彼女と同棲してるから無理」と断られた。仕方なく旅先ではビジネスホテルやネットカフェに泊まって移動することに。

9月末、福岡空港に降り立ち旅程がスタート。

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f:id:ngcmw93:20240408221905j:image最初は太宰府天満宮九州国立博物館へ。展示はあまり覚えてないが、建物の外観が独特な形で美しかったのと、天満宮側から長いエスカレーターで接続しているのが素晴らしかった。その後みなとみらいの動く歩道や香港のエスカレーターを経験して気付くが、自分は長いエスカレーターが好きなようだ。空港とかもテンションが上がってしまう。

その日は福岡で一泊、翌日高速バスで長崎へ。

長崎の街は美しかった。海と山に囲まれて、少ない平地に市街地が広がり、路面電車が走っている。路面電車が何とも言えず良い。写真を撮りまくった。


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長崎には2泊した。原爆の資料館、平和公園、二十六聖人殉教跡、グラバー園眼鏡橋、出島など。長崎港から観光船にも乗った。世界遺産となった産業革命遺産も少し見えた気がする。グラバー園ではドラマ『赤い糸』のロケ地だったのでテンションが上がる。中学生だった頃夢中で見ていた思い出深いドラマだ。


f:id:ngcmw93:20240408221353j:image確か長崎滞在中、中日ドラゴンズ山本昌が現役引退を発表してスポーツ新聞はその話題で持ちきりだった。50歳まで現役、しかも一番負荷のかかる先発投手でずっと第一線で投げた最強の選手。自分は読売ジャイアンツのファンなので、2000年代半ばの中日が一番強かった頃によく投げていた山本を「身体がデカい好投手」として覚えていた。自分は就職が決まったが、50歳になる頃まで色々頑張れているだろうか…。山本のスクリューみたいな絶対的な特技は持って無いんだが…なんてことを考えた気がする。


長崎から福岡に戻る高速バスが、この旅最大のハイライトになった。

夕方、長崎市のバスターミナルから乗り、大村PAを通り過ぎたあたり。つまり左手、西側に大村湾が見えたとき、そのあまりの美しさに驚いた。

ちょうど夕日が沈むタイミングで、海の水面に日が反射して、眩しい光を放っていた。陸に囲まれた湾なので湖のように湖面は静かで、周囲の山に囲まれてその水面だけ輝く様は、神々しいほどに綺麗だった。不意打ちで飛び込んできた感動的な光景に、写真を撮ることも忘れて見入ってしまう。やがてバスは佐賀方面へ進み、景色が遠ざかってからも目に焼き付いて忘れられなかった。ずっと余韻に浸れるほどの感動。これだから旅はやめられない。


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f:id:ngcmw93:20240408221050j:imageそれから下関へ行き、自転車で海峡トンネルを渡ったりした。博多の屋台で隣に座った台湾人の男たちと飲んだりした。4泊5日の九州滞在、良い旅行だったと思う。

大学生活を振り返る:③深夜徘徊

 

学生時代は家賃2万4千円という破格の安さのアパートに住んでいた。築45年の酷いボロ家だが大学までの立地は良く、2階の自室は日当たりも良い。洗濯機が共同なこと、よくブレーカーが落ちること以外は特段問題なく快適に暮らしていた。

大学1年の頃は自宅生の友達が講義終わりに寄って遊びに来たり、たくさんの飲み会に参加するなどしてあまり暇をしなかった。他にも自動車教習所に通ったり、外国人留学生のチューターをやったりと割と忙しくしていた。2年になるとみんなバイトを始めたり、彼女ができて友達よりそっちを優先することになり、夜自然と集まって何かする、といった習慣がなくなった。つまり暇になってしまった。こうして夜の時間を持て余すようになった頃、適当な夜の散歩に出ることが多くなった。

夜23時過ぎ、ネットでニコニコ動画を見るのに飽きた頃に行動を開始する。イヤホンをして、100円玉をポケットに入れて外に出る。ルートは特に決めずに無軌道に歩く。アルバム1枚分くらいの小一時間の徘徊。なるべく通ったことのない道を歩きたくて、アパートの隙間とか、民家の裏庭みたいな私道を通ってみたりした。途中、100円で買える自販機を見つけたら炭酸を買う。もしくはセーブオンに寄って39円アイスを買っても良い。大学周辺にはセーブオンがやたら多く、正門、中門、西門、北門それぞれに1店舗ずつあった。今はもうない。セーブオン自体がローソンに買収されてしまった。ビスケット生地のアイスサンドが好きだった。

夜道を歩くと、意外と人がいることに気づく。終電で駅に着き家へ帰る学生、サラリーマン、犬の散歩をする主婦。みんな何を考えて生きてんのかな、とか想像していた。気楽な学生である自分は、特に何も考えず生きていた。明日のバイト面倒だな、とか、次のスタジオまでにあのバンドの曲耳コピしないと、とか、実に小さな心配事しかなかった。大した悩みが無いのが幸せなことであること、あと2,3年後にはそんな余裕は失って、忙しなく生きることになることにもなんとなく気づいていた。

この頃はまだブログを書き始めていなかったので、他にどんなことを考えていたのかわからない。書かないと忘れてしまう。おそらく今の(30歳の)自分からしたらどうでもいいことばかりに興味が向いていたのだろうが、それでも19歳当時の自分からしたらそれは切実な問題だったと思う。世間知らずで、狭い世界に生きていた分、目の前の物事に真剣だった。人間関係とか、恋愛とか、音楽をやることとか。そのことを思い出せなくなるのは悲しい。

ラジオも聴かず、煙草を吸う訳でもなく、ただ音楽を聴きながら夜の学生街をほっつき歩いていた19歳の春。そんなこともあった。

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大学生活を振り返る:②新宿か上野か新潟


大学2年の頃に付き合っていた人は、埼玉に住んでいた。中学の同級生で、彼女は一年浪人したので当時大学1年だった。5月頃から会うようになり、9月頃に付き合い始め、クリスマスイブに別れた。

自分は貧乏な学生だったため、頻繁に会いに行くことはできず、高速バスで月に一回東京へ行き一日会って帰る、ということを繰り返した。会うのは決まって新宿か上野。もしくは新潟。彼女も新潟の出身なので、帰省のタイミングで自分のいる新潟で会うこともあった。

上野は国立博物館上野の森美術館の展示を見て、公園を散策してから食事をするなど何となく行く理由がわかる。しかし何故か地理的に一番楽と思われる池袋ではなく、新宿でよく会っていたのかは今となっては思い出せない。池袋行きの高速バスもあるのに。当時東京の地理に疎かった自分と、上京(といってもギリギリ埼玉)したばかりの彼女のまあ新宿ならなんかあるし暇しないんじゃない?という雑な考えによるものだったと思う。彼女は新潟に帰ってきた際にはこちらのアパートに来るくせに、埼玉の部屋に泊まることを許してくれなかったので、東京で会う時は朝から丸一日一緒に過ごして夜には解散し、自分は夜行バスで帰る流れがお決まりだった。


ある時、彼女の提案で表参道に行くことになり、美術展を観た。何を見たのかは覚えていない。その後喫茶店に入ってしばらく喋ったあと、スパイラルに行った。面白い構造の建物で、中心が吹き抜けになっており、壁沿いにある螺旋状のスロープで上へと登っていく造りになっていた。面白いな、と思いながらぐるぐるとスロープを登っていくのだけれど、4階か5階のあたりで歩いても歩いても同じ景色が続く。常にぼんやりしている自分は3周目くらいでようやく気づき、なんかループしてない?と確認すると、彼女は「してる。さっきから同じ階をぐるぐる回ってる」と言って笑った。

別の日、上野で会った回に浅草へ移動することになり、電車に乗ることになったが何を思ったのか自分は降りる駅を間違え、そのまま改札を出てしまった。駅を出てからようやく間違いに気づき、隣の彼女に謝ると「気づいてたけど面白いから黙って着いてきた」と言う。文面にすると他人を泳がせて観察する悪い人間っぽいがそんな意図もなく、彼女はただ起こることをそのまま受け入れておきたい、という謎の気質があり、何に対しても「なるがままになってみればいい」という考えの不思議な人だった。


別れてから一度だけ成人式で顔を見たか話はしなかった。そこから何年も経ち、お互い社会人になったある日の深夜、急に着信があった。久しぶりにスマホにその名前が表示された瞬間、ああ、結婚するんだなと直感した。インスタだけお互いをフォローしているが、自分も彼女も特に投稿しないので特に近況はわからない。もしかしたら、ストーリーは上げているけれど「親しい人」に自分が入っていないから見れないだけなのかもしれない。ここまで書いて、自分も「親しい人」リストに彼女を入れていない事実に気づいた。もう特に親しくない、大学時代の最初の方で、新宿や上野で時々会った人。

 

大学生活を振り返る:①春の京都ひとり旅

 

なぜ今さら、というタイミングだが、大学生だった頃のエピソードを思い返しながら書く。書かないと忘れるし、書くことで思い出すこともある。

基本暗くて地味な貧乏学生であったが、時々輝かしい思い出もある。楽しい学生生活だった。

 

 

 

 

大学1年の頃は個別指導の塾でアルバイトをしていた。その塾が3月頭に潰れてしまい、大学2年に上がる春休みがまるっと暇になった。そこで旅に出てやろうと思い立ち、新潟発京都行きの夜行バスに乗り込んだ。

朝6時前、京都駅前に到着。ひどく寒かったことを覚えている。京都は盆地で、夏は暑く冬は死ぬほど寒い、という事実を知らない馬鹿な学生だった自分は、薄手の上着しか持っていなかった。ガタガタ震えながら牛丼を食べた気がする。だんだんと明るくなり、朝靄の街に浮かんで見える京都タワーが綺麗だった。雰囲気に浸りたくてくるりの『アンテナ』を聴いた。


そこから伏見稲荷へ行き、無限に続くような鳥居の石段を上がって参拝するなどした。静かな朝の伏見稲荷は幻想的だった。霧が深く、目の前の鳥居しか見えないのに、ある一瞬霧が晴れて神社の全貌が見えた時の美しさ。他にも何箇所か観光した気がするがあまり覚えていない。


夕方、同志社大学に通う友達が泊めてくれると言うので、最寄り駅で待ち合わせてアパートに向かう。確か丹波橋駅のあたりだった。高校時代の話をしながら酒を飲み、寝袋を借りて寝た。1泊のつもりだったのに、翌日も泊まっていけと言われたので甘えさせてもらうことに。昼間は八坂神社とか三十三間堂とか京都大学をほっつき歩き、夜にまた丹波橋に戻る。バイトから戻った友人に断ってシャワーを浴び、半裸で出るとそこには女の子がいた。えっ、と混乱していると友達は急に彼女が来ちゃったんだ…と申し訳なさそうに言ってきた。お邪魔だし出ようか、と言うと大丈夫だから泊まっていけと言われ、何やかんやあって泊まることに。3人でスーパーに夕飯を買いに行ったり、路上でアイスを食べたりした。寝る時はベッドにカップル、自分は床の寝袋と気まずい感じだったがすぐ寝た。


翌日は神戸まで行き、ポートアイランド周辺を歩いた後大阪でもう一泊した。高速バスで帰還。バス泊を入れて3泊5日の強行スケジュールだったがなかなかに満足いく旅行だった。

大学受験の時にひとりで泊まりがけの移動は経験していたが、旅行だけを目的とした純粋な一人旅はこれが最初だったと思う。夜行バスを予約する時のワクワク感や、初めての街で目的地が見つからずドキドキするあの気持ちはもう忘れてしまったが、この頃は確実に感じていた。旅に関する全てが新鮮だった。そして、行こうと思えば割とどこへでも行けるもんだな、と気付けた。これを境に旅の楽しさに気づき、残りの大学生活ではバイトで金を貯め、2,3泊の適当な旅行を繰り返すようになる。