状況が裂いた部屋

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シグルイの話

 

 少し前にシグルイを読んだ。web上で無料で読めたからだ。あまりに面白く、定期的に漫画喫茶とかで読み返している。

 江戸時代、徳川将軍の御前試合で殺しあう二人の剣士が主人公の、狂気に塗れた復讐劇だ。登場人物がことごとく狂っているのが良い。岩本虎眼先生が一番のお気に入りだ。手の指が6本あり、「星流れ」という独特な型を使う。高齢であり普段は意識が朦朧としているが、剣を持つと覚醒する。物語の中盤、伊良子清玄との決闘で壮絶な死に方をする。

 単純に絵がとてつもなく上手い。絵画のような扉絵にも、なぜか動きを感じる。この緻密な絵が物語への没入感を生んでいるのだと思う。人物の思想、生き様が所作や構えに滲み出ている。全ての絵に念がこもっている。

 一番好きなシーンは、なんといっても岩本虎眼先生が「魔神」に変貌して流れ星を構えるシーンだ。顔の皺の隅々まで気迫が漲っている。顔が真っ二つになる死に様も良い。最期になぜか白無垢姿の娘の三重を見て「綺麗になった喃…」と呟いて死ぬ。

 この漫画の構成として、第一話は将軍に向けてある家臣が"腹を召して"直訴するところから始まる。禁止されている真剣を使った御前試合を開催しようという将軍忠長に、中止を求めて切腹して直訴するのだ。しかし叶わず「暗君…」と言い遺して家臣は死ぬ。その一戦は片腕しか無い剣士と、盲目かつ破足の剣士が戦ったという。引きは完璧だ。どうしてこんなことになったのか。過去に何があったのか。どちらが勝ち、誰が死んだのか。こんな話、気になって仕方がない。

 最初に読む人間は必ず「無明逆流れ、こんな構えがあるわけないだろ!」と思うはず。しかし他の技「流れ」とかイカれた木刀「かじき」はギリギリ存在しそうなあたり、絶妙だと思う。あと、徳川忠長は実在する大名だし、実際に切腹して死んだため「この真剣試合も実際にあったのではないか」と思わせるリアリティがある。物語の中で伊良子の生い立ち、道場との確執、復讐のための修行を経て剣術を生み出す過程を追うことで"足の指で刀の先を挟み、梃子の原理で刀を跳ね上げるカウンター型の斬撃"という通常では絶対あり得ない剣法に説得力が生まれる。これは盲目で感覚が研ぎ澄まされた伊良子だけが使える必殺の剣なのだ。こんなイカれた剣術を使い、たったひとりで道場の門下を殺しまくり壊滅させる描写は本当ワクワクする。こういう話を読みたかった、と痺れた。伊良子の剣術は、落合博満神主打法野茂英雄トルネード投法のような「普通の人間がやらない技で、ライバルを完全に圧倒する」ことへの憧れに通じるものがある。その世代で傑出して最強の人間が、突き詰めた修練の果てにひとりだけ異形の型を使っている。こんなのロマンしかない。

 圧倒的なフィクションには心を癒す効果がある。それがSFやファンタジーのように現実世界からの距離が遠いほど、その効果は大きい。こんなにも血に塗れた殺し合いの話に癒されるのは、現実ではあり得ない世界の話が、本当に在ったかのように真に迫るリアリティで展開されるからだ。完全にイカれ切った武家社会で、復讐のため剣士が殺し合う物語にこんなにも心を揺さぶられる。シグルイの登場人物に共感できる点はひとつもないが、それでもこんなに面白いのは、この物語の圧倒的な強度のおかげだ。これを読んでいた時間、自分は現実を忘れて物語に引き摺り回された。読めてよかった。