好きな枡野浩一の短歌5選
Oasis「Digsy's Dinner」
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What a life it would be
一体どんな人生になるんだろう?
If you could come to mine for tea
紅茶でも飲みに来ないか
I'll pick you up at half past three
3時半に迎えに行くよ
We'll have lasagne
ラザニアでも食べよう
I'll treat you like a Queen
君を女王様みたいに扱うよ
I'll give you strawberries and cream
ストロベリー味のクリームもあげるよ
Then your friends will all go green
君の友達も芝生に来るならさ
For my lasagne
ラザニアを食いに
These could be the best days of our lives
これって人生でも最高に楽しい日々なんじゃないか?
But I don't think we've been living very wise Oh no, no
でも俺たちって賢いようには見えないよな
やりたいことが見つからない
大学3年生になった春先、少し真面目に将来のことを考えた時期があった。就活を翌年に控え、この先何を目指そうか、どんな人生にしようかと悩みながら毎日悶々と生きていた。大学生活は相変わらずぬるく楽しかったが、だんだんと終わりが見えてきて寂しさを感じ始めた頃だ。周りを見渡せば教師になると言って一心不乱に教員採用試験の勉強をする連中やどうしても入りたい業界があると言ってインターンシップに応募する連中がいた。いま冷静に振り返れば、そうやって真面目に行動していた奴は全体の2割くらいしかいなかったように思える。しかしあの時期そういう人間は嫌でも目に入るし、「みんな頑張ってるのに自分ときたら…」と焦らされた。
一番古い記憶
人にあまり家族の話をしたくない。気恥ずかしさからくる部分と、その気恥かしさを感じてしまうことに対し少し負い目を感じている部分があるからな気がする。普通の親なのに。そもそも今から書こうとしているような自分の身の上話みたいなものを人に話すことが恥ずかしい。相当な自意識過剰だと自分でも思う。
違う話題になるが、僕の一番古い記憶は首都高のインターチェンジを車で走っている場面だ。おそらく横浜ベイブリッジのあたりで、下道から高速にのるためにぐるぐると導入の道路を登って高速に合流する地点。つい先日東京へ出張したときにわざわざレンタカーを借りてひとりで首都高を運転し、ベイブリッジまで行って確かめた。我ながら何やってんだと思う。楽しかったけど。
僕は新潟の生まれだが、父親の仕事の都合で0歳から4歳まで東京都港区三田で暮らしていた。慶応大学からほど近い場所にある、ボロくて狭い社宅。幼稚園児だった当時の記憶はほんの少しで、ぼんやりした近所の風景や好きだったトミカとかカセットテープで聞いていた子供向けの音楽、父親と一回だけ三輪車に乗る練習をしたことくらいだ。徒歩15分くらいで増上寺があり、その隣の東京タワーは父親とよく登った(らしい)。近くにNECのビルがそびえたっており、父親の勤める会社は取引先であったために(もちろん父の会社が下請け)、社宅の部屋に「バザールでござーる」とかいうサルのグッズがたくさんあった。あとNTT?かなにかの古いロゴが怖くて、見るたびにギャン泣きしていた。いま考えると可笑しいけど、小さい頃無性に怖かった物って誰にでもあると思う。自分の場合NTTのロゴと深夜にテレビ放送が終わると映るカラーバーの画面だった。
大学3年の夏休み、特にこれといって目的もなく東京へ遊びに行ったことがある。朝の勝どきを散歩して築地で海鮮丼を食べ、とりあえずゆりかもめでお台場へいってふらふらした。そこで急にレインボーブリッジを歩いて渡ることを思いついた。昔母親が「あんたが2歳くらいの頃、社宅からベビーカーを押してレインボーブリッジを歩いて渡った」と言ったのを思い出したからだ。結局徒歩で20分くらいかけて渡ったのだった。眺めは良かったが当たり前に車の走行音がうるさかった。
橋を降りると、目の前の風景に急になんだか既視感を覚えた。自分はこの場所を何度か歩いたんだな、と直感的にわかって、昔住んでいた港区三田といえばこのあたりだと気づいて急に社宅を探したくなった。仕事中の母親にラインで昔の住所を聞き、地図アプリを見ながら場所へと向かった。途中の道はどれも記憶にあるようなないような微妙な感じだったが、社宅のある通りはなぜか地図に頼らずに近くまで来たとき「ここだ」と分かった。10年前に父の会社から所有は移った、と聞いていたので建物自体残っているかわからなかったが、奇跡的に廃墟となって残っていた。
見つけた瞬間は残っていたのか!と興奮したが、しばらく眺めているうちにいろいろ考えてしまってつらくなった。その後おセンチな気持ちで博物館を回ったり友達に会ったりして次の日アパートではなく実家へ帰った。母親と社宅はそのまま残っていた、そっか、という会話をした。
「働きたくなさ」の研究
働きたくない。日曜の夜がとても憂鬱だ。
1.要因が他人にある場合
これはどうしようもないと思う。自分自身の問題であればいくらでも改善してうまいこと仕事も回るようにできるが、外からの問題はどうにもできない。
例えば、僕は朝出社するとまず、その日中にやるべきタスクをメモに書き出してから仕事を始めるようにする。やることが分かっていれば時間配分も考えられるし、何もなければ定時に帰れることもある。それが理想だし普通はこうなるはずだ。
しかし現実はそうはいかず、めちゃめちゃに残業するのだった。残らない日なんて週に1日、「ノー残業デー」と銘打ってあるので残業代がつけられないし、残ってはいけない風潮があるため7時くらいには帰らされる日だけだ。帰れてんじゃん、と思われるが次の木曜日その分業務が上積みされるだけだし、終わらない仕事をデスクに積んだまま帰るのはひどく辛いし重い気分で退勤し次の日も最悪の気分で始まるのだった。
なぜ朝作る予定表通りに仕事ができないのか。それはひっきりなしに寄せられる照会のせいなのだった。一応自分が今いる部署は本社的な立ち位置なので、地域、つまり出張所的なところから常に問い合わせがくる。基本電話なのでその場で一言で解決できることもあれば、調べる必要があるために法律書を読み要綱を読み、回答を作ってから丁寧に答えないといけないこともある。メールでの問い合わせは大抵が長文で来るし、要領の得ないひどい文章の場合もある。出張から帰り、一仕事終えた気になってメールチェックをすると、そんな無慈悲な長文が何通も着信しているのだった。そんな面倒な仕事も業務のうちなので、ため息をついて回答するのだが、もちろんその間自分の仕事は進まない。一日に3時間この照会に煩わされるとすると、その分できなかった自分の仕事の3時間は残業することになるのだ。予定に照会対応の時間も入れろよ、って話だがいつ来るともわからない照会のために時間を作るのもあれあので、まあそれでも予定表は4時ぐらいに自分の仕事を終わらせられるよう組むべきなんだろうとは思う。うちの課でこういった照会対応ができるのが自分の係りの4人だけ(他の人はみんな「技術屋」と呼ばれる技術職)、しかも大抵誰かは出張しているのでデスクにいる人間が答える、という余裕がない体制はどうかと思うが、改善の提案なんて一番下っ端の自分ができるわけもない。長い物には巻かれる、がモットーである僕はさっさと部署を異動して照会をして本庁の人間を困らせてやる立場になる日を夢見て、あと2年耐えなければならないのだった。
2.自分自身の問題
でもなんだかんだこれに尽きるのだと思う。僕は圧倒的に仕事が遅い。ひとつの作業も何度も見直さないと気が済まない。丁寧にやってる、と言えば聞こえはいいが普通にミスはしてるので単に仕事が出来ないだけだ。まあ1年目なんてそんなもんだよ、俺なんて新人の頃は〜と優しい先輩たちはフォローしてくれるが、なんかミスの次元が違う気がしてならない。一応守秘義務とかあるしなにより説明が面倒なので業務の細かい内容は書かないけど、呆れられる前に人並みになりたいな、と思う。1年目、という免罪符はもうすぐ使えなくなる筈だし。チェックシートを作ったりミスを書き出して改善点考えたり、まあ当然といえば当然の事を地道にやって人並みを目指すしかないのだ。とても暗いな。
私の好きな90年代
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