状況が裂いた部屋

旅行と読書と生活

きっかけについて

久々に旅行に出たり、友達と楽しく飲んだりしたおかげか、ここ数週間の過労で参ってしまっていた心が回復し、少しだけ前向きになれた。夏が近づき暖かくなったせいかもしれない。同時に創作へのモチベーションが上がってきたので、この機を逃さぬよう文章を書く。

 

恩田陸はOL時代、酒見賢一の『後宮小説』を読み、著者が自分と一歳しか違わないことにショックを受け『六番目の小夜子』を書いてデビューした。小説『ブラザーサン・シスタームーン』の第1章の主人公・綾音は、バイト先の飲み屋で客に「やっぱり、書いてるんでしょ?」と尋ねられ「いいえ、まだです」と答えたことで、初めて自分が小説家になりたいと思っていることを自覚する。金城一紀の短編『太陽がいっぱい』の主人公は親友から数年振りの電話を受けた日、かつて親友と観た映画の原作を偶然手に取り、それがきっかけで小説を書く。

 

そういった僥倖と言えるようなドラマチックなきっかけは、24年間生きてきて、自分の人生に訪れたことはない。残念ながら今後も訪れない気がする。そして今更気づくこととして、そしてきっかけなんて必要ない、と思う。

 

正直に言うとこんな創作へ向かう個人的な内面の変化、みたいな文章は書きたくなかった、普通に恥ずかしいから。それに本当に憧れる作り手にはひたすら作品だけを作り続けてほしいし、私生活や創作の裏側の苦労なんて知りたくない、創作物と名前だけを残して死んでいって欲しい、という人間なので。しかし真っ向から矛盾するけれど、創作の裏側のリアルに迫ったドキュメンタリーは大好物だし、そういった「生みの苦しみ」みたいな側面を知った方がその人が創った創作物もより身近に、より血の通った美しい物に見えることもある。

 

多くを語らず、作品だけで勝負する、なんて仙人みたいなカッコいい人間になれないこともよく自覚している。どこまでも俗っぽく、欲も惨めさも全て曝け出すつもりで、とりあえず残りの二十代をジタバタと過ごすつもりだ。あと最近になって、のんびりすぎる自分の性格もようやく把握し始めたので、生き急ぐくらいが丁度いいのかなと思ったりする。

そのうち、この文章も含めて、また過剰な自意識のせいで全てが恥ずかしくなり、全部消してしまうかもしれない。それでも何か始めないことには何も始まらないし、つまらない人間のままこれ以上歳を重ねるのは苦痛で仕方がない。いや、苦痛どころか何も感じないまま、ゆっくり死んでいくんだろう。学生の頃からずっとそうだった。ステージ上で必死に表現している人をどこか冷めた目で見てしまう自分、そしてそんな自分を俯瞰して観察している自分。何か頭に引っかかったまま、けれど自分は人前に出るような人間じゃないし、と言い訳したり、こんな人間のやることなんて誰も見向きもしないし、誰も喜ばない、と決めつけてしまう。そう、誰も喜ばないだろう。そもそも誰かを喜ばせようなんておこがましい考えは要らない。自分の創った何かで、自分が満足できればそれでいい。実際、自分が過去に書いた文章や音源を見返したとき、救われたような気持ちになったことが何度かある。過去の自分の創作に救われる、こんな素晴らしいことがあるだろうか。全ては自分のため、自分を救済するためにやろう。文章を書こう。