ずっとこういう本を読みたかった。理想的なテーマで、文章もきれいで読みやすい。暗めで内向的なトーンも良かった。この本を見つけられてよかった。
これは旅行記であり、私小説であり、エッセイで読書記録だ。筆者は趣味としてやってるというより、連載することになったので原稿を書くために、使命感で(若干億劫になりながら)小説の舞台となった場所、あるいはその小説に似合う場所などをあちこち訪ねて、本を読み、文章を書く。内容は本の印象だったり、街の様子や人との会話、自分の考えたことなど様々だ。聖地巡礼、という感もなく、例えば金沢文庫へ行ったものの休館中で、駅前のミスタードーナツに寄っただけで帰る章とかある。馬が登場する本を読むために、路上でコンミートを食べながら発泡酒を飲んだりする。割と無軌道だ。
ある場所を訪れて、その場の風景を観察したり、何かを体験することによって、筆者は小説を新たに解釈したり書かれた当時に思いを馳せたりできる。面白い試みだし、ひとりでできるのも良い。読書も、旅も基本一人でできる。
そして旅の行き先は、ただ旅行するには行き先にとても選ばないような、在来線の終点とかコケが生えた寺とかだったりする。わざわざコストコのフードコートの喧騒の中で『万延元年のフットボール』を読んだりする。好き好んでやる人はあまりいなそうな、遊び心のあって大して意味がなさそうな探訪、こういうのが面白い。
第四章で後藤明生の『挾み撃ち』の舞台を辿り、亀戸で豆屋を発見したときの描写が良かった。作中に登場した豆屋が同じ場所に残っていたのを見つけて、思いがけないことに筆者は笑いださんばかりに興奮する。目的を持って旅をすると、こういう発見が嬉しい。
筆者があとがきでも言っているとおり、結局、自分が自分であることから逃れられない。どこへ行っても、何をしても、自分という存在の輪郭が増すだけで、それ以外の人間にはなれない。自分が香港のスターフェリーに乗りながら、夜景を見てぼんやりとそんなことを考えたのを思い出した。旅をしてると、普段はそんなことは考えないのに、そういう俯瞰的なモードになることがある。
筆者は第十二章がターニングポイントだという。タイトルが「???」と表記されている、若干掴みどころのない、でも最後に現在を肯定して前を向くような文章。いくつもの本の内容を引用し、街を見渡して、自分の立ち位置を確認するようなこの章は、本書全体でやろうとしていることが凝縮されているようだ。
筆者はこの章を「墓標」と呼んでいる。こんな感じに吹っ切れるきっかけになるような、或いは心の拠りどころになるような、自分にとって改心の文章が書けるようになりたい。
くどうれいんの本を読んだ時も思ったけど、普通に会社勤めをしている人が、なんとなく生活が滲むような文章を書いていることに本当に勇気づけられる。日々働いて、生きるための煩わしいあれこれに手を焼きつつ、時間を作っては創作をする。これはすごく尊いことのように思える。
あと、本筋と全く関係ないが、筆者が馬喰町の夜行列車ホテルで試す「夜行列車のなかでテクノなどの規則性を持つ音楽を聴くと、脱力感と浮遊感があり自己同一性を失ってしまいそうになり、言いようもなく気持ちいい」感覚、について知りたくなった。割と界隈では有名な感覚なんだろうか。映画『僕達急行A列車で行こう』で松山ケンイチが車窓を眺めながら音楽を聴くオタクの役をやってたのを思い出す。これのことだろうか。調べてもよくわからない。トランス状態というか、ある種の"ととのう"感覚になれるのだとしたら興味がある。合法で快楽を得る方法をたくさん知りたい。