状況が裂いた部屋

旅行と読書と生活

宮本輝『青が散る』

 

 どうしてこんなにも哀しく、寂しいのだろう。テニスに打ち込む主人公を描いた青春小説だというのに、読後まず浮かぶのは「寂しい」という感想だ。これは初めて読んだ学生の頃から変わらない。むしろ読み返すほどにこの寂しさ、無常感は強まるばかりだ。

 簡単なストーリーについて。関西に新設されたとある大学へ気の進まぬまま進学した主人公・椎名燎平は、入学手続きの日に大手洋菓子店の令嬢、夏子に一目惚れする。巨漢に眼鏡という出で立ちの男・金子と出会いテニス部に入部した燎平は、夏子とは微妙な関係のまま、ひたすらテニスに打ち込む毎日を送る。テニス部の同期やライバルのほか、薄暗い喫茶店にたむろする学ランの応援団、野球を諦めたフォーク歌手など、学生生活の中で出会いながらかけがえのない日々を淡々と過ごしていく。

 主人公はテニスに熱中しており、猛烈な練習の末にインカレ出場まで果たすというのに、この小説の主題はスポーツのみにあるとは思えない。明らかに燎平の生活はテニスを中心に回っており、試合のシーンや練習風景はしょっちゅう描かれている割に、印象に残るのはどうでもいいような別の場面ばかりだ。それは練習終わりの溜まり場である喫茶店で語られる、とりとめもない会話や、ふとしたときにモノローグのように語られる、燎平の心情だったりする。登場人物は皆ことごとく影を持っており、燎平に向けて、あるいは自分へ言い聞かせるようにそれぞれ勝手に言葉をこぼすが、それらは燎平の心に留まり続け、ふとした瞬間に頭を過ぎり、不思議と心に残る。

 

青春小説とは、「場」を語る話だとある人が言っていた。

この小説で言えば、大学という場、更に言えば灼熱のテニスコートだったり、善良亭という食堂だったり、あるいは喫茶店「白樺」の薄暗い地下の空間なのだろう。

また、長い人生の中でほんの一時期訪れる、好きなことに純粋に熱中できる大学生活の4年間という時代、この特異な時間自体を「場」と捉えることもできる。

そしてこの時間は、当たり前だが有限で、限られたものだ。終わりがないように思える楽しい時間もいつか終わりを迎え、誰しもが卒業と同時に退場しなければならない。

全ての青春小説に言えることだが、あらかじめ終わりが決まっている、というこの設定がもう寂しい。

 

小説を通じて一番印象的なのは、夏子が永遠に失った「何か」。言葉としてそれを捉えるのは難しいが、この小説の本質はここに尽きると思う。

先の見えない恋愛の末に、心身ともに堕ちてしまった夏子と、それでもどうしようもなく夏子を好きな燎平のやるせない心情。夏子は最後まで美しいが、喪ったその「何か」は、二度と戻らない。

自分の勝手な妄想だが、なんとなく夏子は「ノルウェイの森」のハツミさんのようにいつか自殺するんじゃないか、と心配になる。

 

この小説の根幹にある「寂しさ」は、青春小説が往往にしてそうであるように、この物語が何かを喪う小説だからだと感じる。それは「若さ」や「潔癖さ」という言葉、あるいは夏子の眼の奥にあった緑色の色彩として描かれているが、物語のラストシーンである以下の文章に集約されている。

燎平は夏子の目を見つめ、夏子は若さとか活力とかいったものではないもっと別な大切な何かを喪ったのかもしれないと思った。いや、夏子だけではない。金子も貝谷も祐子も、氏家陽介や端山たちも、自分のまわりにいた者はすべて、何物かを喪った。そんな感懐に包まれた。そして燎平は、自分は、あるいは何も喪わなかったのではないかと考えた。何も喪わなかったということが、そのとき燎平を哀しくさせていた。何も喪わなかったということは、じつは数多くのかけがえのないものを喪ったのと同じではないだろうか。そんな思いにひたっていた。

そして燎平は遠ざかっていく夏子の姿を見ながら、ある登場人物の「人間は、自分の命が一番大切だ」という言葉を思い出し、この小説は終わる。

 

人生の中で、大学生活とは特別な時間だとつくづく思う。

モラトリアムの終わりと、社会に押し出される瀬戸際にぽっかりと現れる空白。気楽な学生生活というぬるま湯の生活と、長い長い仕事勤めの社会人としての先の人生。気の合う友達とひたすらだらだらと怠惰に過ごしてもいいし、趣味に熱中してもい。気ままに旅に出てもいい。こんなに制約のない自由な時間は、この先の人生できっと二度とない。

でも、そんな時間にもいつか終わりがある。

誰も口には出さないが、なんとなくこの時代に終わりがあり、否応なしに世の中に出て行かなければならないことにみんな気付いている。この自由もほんの儚いもので、社会に出ればこの場での出来事も思い出になり、やがて忘れ去ってしまうのだろう。

優れた青春小説は、そんな寂しさを常に感じさせる。だからこそモラトリアムという時間は尊くて、愛おしい。そんな大学時代の特別な寂しさが描かれたこの小説を、僕はこの先もずっと好きなんだろうなと思う。