街を歩いていると時々見かける、何をするでもなくただじっと座っている人。大抵が老人で(どちらかと言えばおじいさんの場合が多い)、普通の民家の前などで、椅子だったり、玄関の石段だったりといった場所に腰をかけて、ぼうっとしている。目の前の道を行き交う人を眺めている訳でもなく、ましてや本を読んだり煙草を吸ったりもせず、ひたすらに何もしていない。いや、生きている以上何かをしている筈であって、究極的に言えばそれこそ「生きている」とか「呼吸をしている」としか言いようが無いんだけれど、客観的に見たら彼らが何をしているかを説明しようとしたときに結局「ただ座っている」としか形容しようがない、そんな人たちがいる。
彼らは何をしているのだろうか、いや、何もしていないことをしているのだろうか…。彼らを見かける度に考える長年の謎だったのだけれど、最近これなのかな、という自分の知らない概念を知った。
トルコ人と付き合う上で彼らの人間性を知るために最も重要な用語の一つが"Keyif"「ケイフ」である。このケイフという用語を日本語で正確に説明することは困難を極めるが、簡単に言えば「何もしないことを喜ぶ気質」となると思う。この用語は特にイスタンブルにおいて重要性を持つ。
— بلال ヨンホ・セビヨルン (@yonlee) 2017年9月13日
イスタンブルの街中を歩いた人なら誰しもが見たであろう、たとえば路上にただ立ってるだけで何もしていない人たち。あるいは雑貨屋でお客が商品をレジに持ってくるまでただ座って外の風景を見ているだけの売り子。それらは皆ケイフという「何もしない」という「至福の行為をしている」人たちなのだ。
— بلال ヨンホ・セビヨルン (@yonlee) 2017年9月13日
イスタンブルのボスポラス海峡を臨む橋のたもとのカフェで、マルマラ海を眺めチャイを嗜みただ何もしないで時を過ごす。
— بلال ヨンホ・セビヨルン (@yonlee) 2017年9月13日
私はこの「何もしない」というトルコ人のケイフ文化を垣間見るためだけにもトルコに行く価値は充分あると思っている。それだけ悠久の時が太古の昔からこの地には流れているのだ。
このツイートを見た瞬間浮かんだのが、何もせず椅子に座り、ぼんやりと佇んでいる老人の姿だった。そうか、あの人たちは“ケイフ”をしていたのか…。まずこの概念が目から鱗だった。毎日を忙しく、何かに取り組んでいないと不安になるような世知辛い典型的な日本人とはかけ離れた、仙人のような生き方の極致ではないか。「何もしない」、という幸せ。欲にまみれた自分には相容れない価値観だけれど、少しわかる気がする。
今後は街で座って何もしていない人がいたら、「あのじいちゃん呆けてるのかな…」ではなく、「ああ、ケイフを実行されてる方だ」と多少の尊敬の念を込めて捉えておこうと思う。